できごと

ビュザンティオンの建設

Founding of Byzantion
BC657年(伝承)
重要度 3
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC657年(伝承)の版図を描いています(33勢力)。

概要

メガラの植民者が、ボスポラスのヨーロッパ側に街を建てた。神託は「盲人の街の向かい」と言い、先に対岸に建てた者は盲人だとされた。黒海と地中海の間の、金角湾。千年後、コンスタンティヌスが首都にする。

場所

コンスタンティノープル
41.01°N 28.98°E · トルコ・イスタンブール

本文

紀元前8世紀から6世紀にかけて、ギリシアの都市国家は、地中海と黒海の岸の各地に人を送り出し、新しい町を建てた。土地が狭く人が増えすぎた町、争いに敗れた人々を外へ出したい町、交易の拠点を求める町が、それぞれ船団を送った。イタリア南部やシチリアにはギリシア人のクマエ植民やシラクサの建設のような町が生まれ、北のエーゲ海から黒海の入り口にかけても、多くの植民市が並んだ。

アテナイとコリントスにはさまれた地峡の小さな町メガラも、そうした町の一つだった。山がちで畑が少ないメガラは、早くから海に出て、シチリアにも植民市を建てたが、とくに力を注いだのが黒海への入り口だった。エーゲ海から黒海へ入るには、マルマラ海を抜け、細長いボスポラス海峡を通らなければならない。メガラの人々は、紀元前7世紀の前半、まず海峡のアジアの側の岸にカルケドンを建てた。

コンスタンティノポリスの俯瞰図
コンスタンティノポリスの俯瞰図Wikimedia Commons http://en.wikipedia.org/wiki/User:DeliDumrul · Public domain

それから十数年後、メガラの人々は海峡のヨーロッパの側に、もう一つの町を建てる。これがビュザンティオンである。建てた年は紀元前667年とも657年とも伝えられ、確かではない。町の名は、植民を率いたビュザスという人物にちなむとされるが、その人物は伝説の色が濃い。後の時代の伝承によれば、植民に先立ってデルフォイの神託を求めると、「盲人たちの土地の向かいに町を建てよ」と告げられた。植民者たちは、対岸のカルケドンの人々こそ盲人だと悟った。目の前にもっと良い土地があるのに、それを見ずに劣った側に町を建てたからである。

この話の元になった言葉は、ヘロドトスの『歴史』にすでに見える。紀元前6世紀の末、ペルシアのダレイオス1世がスキタイへの遠征でこの海峡を渡ったころ、ペルシアの将軍メガバゾスが、カルケドンの人々は盲人だったに違いない、と言ったという。後から来たビュザンティオンの人々の土地のほうが、はるかに良かったからである。

その良さは、地形にあった。町の建った半島の北側には、長さ7キロほどの細長い入り江が深く切れ込み、波の静かな天然の良港になっていた。のちに金角湾と呼ばれる入り江である。三方を海に囲まれた半島の先端は守りやすく、陸の側だけを城壁でふさげばよかった。しかも海峡の流れは黒海からエーゲ海へ向かって南に強く流れ、その流れが、季節ごとに黒海とエーゲ海の間を行き来する魚の群れを、ヨーロッパの岸の入り江へと導いた。マグロの群れが金角湾に入り込み、町の人々は網ですくうように獲ったと、のちの地理学者は記している。対岸のカルケドンには、その魚はほとんど寄らなかった。

ビュザンティオンは、ボスポラスを通る船の門番になった。黒海の北の岸の穀物は、古代のギリシアの都市、とくにアテナイを養う大事な食料で、それを積んだ船は必ずこの海峡を通る。町は通る船から税を取り、時にはその税をめぐって周りの国々と争った。紀元前5世紀のはじめにはペルシアに従い、ペルシア戦争のあとはアテナイを中心とするデロス同盟の結成に加わった。ペロポネソス戦争の末期にはスパルタの側に寝返り、アテナイのアルキビアデスに囲まれて取り戻されている。

紀元前340年、マケドニアのフィリッポス2世がビュザンティオンを囲んだ。町はアテナイの助けも得て持ちこたえ、フィリッポスは引き揚げた。後の伝承では、闇夜に城壁へ忍び寄ったマケドニア兵の姿を、空に現れた光が照らし出し、町を救ったとされる。町の人々は、それを女神ヘカテの恵みと考え、三日月と星を町のしるしにしたという。のちのオスマン帝国の三日月と星の旗がここに由来するという説もあるが、確かな裏づけは無い。

ローマの支配の下に入ったあとも、町は海峡の要として栄えた。だが紀元193年、皇帝の位をめぐる内乱で、町は東方の軍に推されたペスケンニウス・ニゲルの側についた。勝ち残ったセプティミウス・セウェルスの軍は町を2年あまり囲み、降伏させると城壁を壊し、町を罰した。のちにセウェルス自身が町を建て直している。

324年、コンスタンティヌス1世は、対岸のアジアの側のクリュソポリスで競争相手のリキニウスを破り、ローマ帝国をただ一人で治めることになった。彼は新しい都の場所として、この海峡の町を選んだ。330年5月11日、町は「新しいローマ」として奉献され、やがて皇帝の名をとってコンスタンティノポリスと呼ばれるようになる(コンスタンティノープル遷都)。ビュザンティオンの名は、日々の呼び名からは消えていった。

だが名は、思わぬ形で生き残った。1557年、ドイツの学者ヒエロニムス・ヴォルフが、この都を中心とした東のローマ帝国の歴史を、古い町の名から「ビザンツ」の歴史と呼んだ。その呼び名が近代の歴史家の間に広まり、いまではこの帝国(東ローマ帝国)をビザンツ帝国と呼ぶことも多い。その帝国の人々自身は、1453年に都が落ちるまで、自分たちをローマ人と呼び続けていた。都はのちにイスタンブルと呼ばれるようになる。その名は、ギリシア語で「町へ」を意味する言葉から来たという説が有力である。メガラの小さな植民市は、ただ「町」と呼ぶだけで通じる、世界でも指折りの大都市になった。

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