リュクルゴスの制
概要
土地を等分し、貨幣を鉄に限り、7歳から集団で育てる。スパルタの生き方を定めた立法者の名で伝わるが、その人がいたかどうかは分からない。
場所
37.08°N 22.43°E · ギリシア・ラコニア
本文
古代ギリシアのスパルタは、ほかのどの都市とも違う生き方をした国として知られる。その仕組みをすべて定めたとされるのが、立法者リュクルゴスである。ただし、その人が本当にいたのかどうかは、古代の人びとにさえ分からなかった。1世紀の伝記作家プルタルコスは、リュクルゴス伝の冒頭で、この人物については確かに言えることが何一つ無い、と断っている。生きた時代も、紀元前9世紀とする説から8世紀とする説まで、伝えによってばらばらだった。
伝承によれば、リュクルゴスは王家の一員で、若い王の後見をしていたが、陰謀の疑いをかけられて国を出た。クレタ島やイオニア、エジプトを旅して各地の法を学び、混乱の続くスパルタに呼び戻されて、国の仕組みを一から作り直した。デルフォイの神託は彼を迎えて、あなたを人と呼ぶべきか神と呼ぶべきか迷う、と告げたという。

新しい仕組みはこうである。二人の王を残し、その上に60歳以上の長老28人と二人の王からなる長老会を置く。大事なことは市民の集会にかけて決める。のちにはこれに、毎年選ばれる5人の監督官が加わり、王さえ監視する強い力を持った。王と長老と民の力が互いに抑え合うこの形は、混合政体の手本として、ほかのギリシア人に称賛された。
暮らしの決まりは、さらに徹底していた。土地は市民に等しく分け与えられ、9000の区画になったとプルタルコスは書く。金貨や銀貨は禁じられ、代わりに重い鉄の棒が貨幣とされた。少しの額でも運ぶのに牛車が要り、盗む気も貯める気も起きない。こうして、贅沢な品を売りに来る商人も、外から来る教師も、スパルタに寄りつかなくなった、と。

子どもは国のものとされた。生まれた赤ん坊は長老たちに見せられ、弱い子は山の谷に捨てられたと伝えられる。男の子は7歳で家を離れ、年齢ごとの組に入れられて、集団で育てられた。裸足で歩き、薄い衣一枚で冬を過ごし、わずかな食べ物で飢えに耐える。足りない分は盗んで補うことを許されたが、見つかれば厳しく罰せられた。盗みが下手だったからである。
大人になっても、男たちは家で食事をとらなかった。15人ほどで一つの食卓を囲む共同の会食に属し、毎月決まった量の大麦や酒、チーズやイチジクを持ち寄った。黒いスープと呼ばれる血入りの粗末な汁が名物だったという。会食に食べ物を出せなくなった者は、市民の資格を失った。30歳になるまでは、結婚しても兵営で暮らした。

女性もまた、ほかのギリシアの都市とは違っていた。娘たちは走り、投げ、競い合った。強い母から強い子が生まれるためだと説明された。スパルタの女性は自由にものを言い、のちには土地の多くを持つようにもなった。アテネの人びとには、それが奇異に映った。
この暮らしを支えていたのは、土地を耕す隷属民、ヘイロタイである。スパルタは、西隣のメッセニアを征服して、その住民を土地ごと支配していた(第一次メッセニア戦争)。紀元前479年のプラタイアの戦いでは、市民の重装兵5000人に、ヘイロタイ3万5000人が従ったとヘロドトスは書く。1人に7人である。数で大きく上回る人びとの反乱を、スパルタは常に恐れた。若者たちが夜にヘイロタイを襲って殺す秘密の制度もあったと伝えられる。市民が鍛え続けたのは、外の敵と同じくらい、内の敵に備えるためだった。

最後の場面も伝承の中にある。仕組みを整え終えたリュクルゴスは、市民に、自分がデルフォイから戻るまで法を変えないと誓わせて旅立った。神託がこの法は良いと告げると、彼はそれを国に書き送り、自ら食を断って死んだ。戻らなければ、誓いは解かれないからである。
研究者の多くは、スパルタの仕組みは一人が一度に作ったものではなく、紀元前7世紀ごろ、メッセニアとの長い戦いの中で少しずつ形になったと考えている。それに一人の立法者の名を与えたのが、リュクルゴスの伝説なのだろう。

この仕組みは、スパルタをギリシア最強の陸軍の国にした(テルモピュライの戦い)。だが市民の数は少しずつ減っていった。土地を失った者が市民から外れ、新しく加わる者はいなかったからである。アリストテレスの時代には、市民は1000人を切っていたという。紀元前371年、レウクトラの戦いでテーバイに敗れると、スパルタは立ち直れなかった。それでも、質素で規律正しい戦士の国という像は、プラトンからルソーまで、後の世の思想家たちを引きつけ続けた。