人物

ブラシダス

Brasidas
? – BC422年
スパルタ重要度 3

概要

スパルタで最初に演説の上手い将軍。ヘイロタイ700人を兵にしてトラキアへ歩いた。「私は解放者だ」。アンフィポリスをトゥキュディデスの艦隊が着く前に取った。トゥキュディデスはそれで追放されて『歴史』を書いた。アンフィポリスの人は彼を建設者として祭った。

所属

スパルタ

関わったできごと(1)

アンフィポリスの戦いBC422年 · 戦死

本文

スパルタの人。父はテリスで、生年は分からない。スパルタは言葉少なく、命じられたことを黙って果たす戦士を理想とする国だった。その中でブラシダスは、自ら動き、人を言葉で説き伏せる、スパルタらしくないスパルタ人として記録に残った。彼について書いたのは、敵国アテナイの将軍で歴史家のトゥキュディデスである。

矢の標的となったブラシダス(想像図)
矢の標的となったブラシダス(想像図)Wikimedia Commons Walter Crane · Public domain

ペロポネソス戦争が始まった紀元前431年、アテナイの艦隊がペロポネソス半島の西岸を荒らし、メトネの町を攻めた。たまたま近くで守備についていたブラシダスは、100人の兵を率いて敵の陣を突っ切り、町に入って守り抜いた。トゥキュディデスは、この戦争でスパルタで最初に称えられたのが彼だったと書く。

紀元前425年、アテナイ軍がペロポネソス西岸のピュロスに砦を築いた。スパルタ軍はこれを海から攻めたが、岩場で上陸をためらう船長たちに、ブラシダスは船を惜しむな、岸に乗り上げてでも上がれと叫び、自分の船を浜に突っ込ませた。上陸しようとしたところで多くの傷を受けて気を失い、盾が海に落ちた。アテナイ軍はその盾を拾い、勝利の記念に飾った。この戦いはやがてスパクテリア島に残されたスパルタ兵の降伏に終わり(スファクテリアの戦い)、スパルタは大きな打撃を受けた。

スファクテリアの戦いに関わる図版:Battle of sphacteria
スファクテリアの戦いWikimedia Commons Javierfv1212 ( talk ). · Public domain

紀元前424年、ブラシダスは思い切った策に出た。アテナイの力の源はエーゲ海北岸の同盟市と、そこから得る銀や木材である。そこを陸から突けば、海で勝てないスパルタにも勝ち目がある。マケドニアの王と、アテナイから離れたがっていたカルキディケの町々が助けを求めていた。スパルタはブラシダスに、ヘイロタイ(国有の隷属民)700人を重装歩兵として与え、ほかに雇い兵1000人を付けた。ヘイロタイの反乱を恐れていたスパルタにとって、屈強な者たちを国の外へ出すことにも意味があった。トゥキュディデスは、同じころスパルタが、自由にしてやると約束して名乗り出させたヘイロタイ2000人を、ひそかに消し去ったと記している。

北へ向かう途中、ブラシダスは途中のメガラをアテナイの手から救い、敵意を持つ人々の多いテッサリアを、地元の有力者に案内させ、交渉と強行軍で一気に通り抜けた。カルキディケのアカントスでは、城門の前で市民に演説した。自分はギリシア人をアテナイの支配から解放するために来た。誰にも無理強いはしない。だが、自由を拒むなら、ぶどうの収穫前の畑を荒らすことになる。市民は投票で、アテナイから離れることを決めた。言葉と脅しをほどよく混ぜたこのやり方で、町は次々に門を開いた。

最大の獲物は、アテナイがこの地方の要として植民したアンフィポリスだった。紀元前424年の冬、ブラシダスは雪の夜に橋を押さえて町の外を占領し、市民に寛大な条件を示した。残りたい者は財産を保ったまま残れる、去りたい者は5日のうちに去ればよい。近くのタソス島にいたアテナイの将軍トゥキュディデスは7隻の船で駆けつけたが、町はその日のうちに降っていた。トゥキュディデスは河口の港エイオンを守るのがやっとで、この失敗を咎められて20年の追放となった。追放の身で、彼は戦争の両側を見て回り、歴史を書いた。その本の中で、自分を追放に追い込んだ敵を、公正で穏健で有能な人物として描いている。

翌年には、休戦が結ばれた直後にスキオネの町がアテナイから離れた。ブラシダスが入ると、市民は彼にギリシアの解放者として金の冠をかぶせ、競技の勝者を迎えるように花の飾りを結んだという。だが本国スパルタは、ピュロスで捕らえられた兵を取り戻すための和平を望み、彼に増援を送ろうとしなかった。王たちが彼の名声を妬んだためだともいう。

紀元前422年、アテナイは煽動政治家クレオンに大軍を付けてアンフィポリスの奪還に送り込んだ。クレオンが町の様子を見に兵を進めたところ、ブラシダスはアテナイ軍の隊列が乱れて退き始めるのを見て、選び抜いた150人とともに門から打って出た。アテナイ軍は総崩れになり、クレオンは逃げる途中で討たれた。ブラシダスも深手を負い、町へ運び込まれた。勝ったと聞いてまもなく息を引き取った(アンフィポリスの戦い)。

アンフィポリスの人々は、彼を市の広場に葬り、町の創建者として祀った。アテナイ人の創建者ハグノンを記念する建物を取り壊し、ブラシダスのために毎年競技と犠牲を捧げることにした。両陣営で戦争を推し進めていた二人が同じ日に死んだことで、和平への道が開け、翌年、ニキアスの主導で和約が結ばれた。アテナイの喜劇作家アリストファネスは、同じ年の喜劇『平和』で、戦争の神が平和をすり潰そうとして杵を探すが、アテナイの杵もスパルタの杵も無くしてしまった、と二人の死を当てこすっている。

プルタルコスは、こんな話を伝えている。アンフィポリスから来た人々が母のアルギレオニスを訪ね、息子さんはスパルタ一の人だったと称えると、母は、息子は立派だったが、スパルタには彼よりすぐれた者がたくさんいる、と答えた。スパルタの監督官たちはこの言葉を称えて彼女を表彰したという。国のために個人を誇らない、スパルタの理想を語るための逸話だろう。スパルタらしくない息子は、スパルタらしい母の言葉によって記憶された。

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