第1回オリンピア競技
概要
ギリシア人が共通の年代の起点として用いた。以後4年ごとに開かれる。
場所
37.64°N 21.63°E · ギリシア・エリス
関わった人(1)
ピュタゴラスBC570年頃–BC495年頃 · のちにこの世界から出る本文
ペロポネソス半島の北西、アルフェイオス川とクラデオス川が合わさる緑の谷に、オリンピアの聖域がある。ここは町ではなく、神々の王ゼウスを祀る森と祭壇の地だった。発掘からは、BC10世紀ごろには既に人々がここで祈り、青銅や土の小さな奉納品を捧げていたことが分かっている。
伝承では、BC776年の夏、この聖域で初めて競技が行われ、エリスの町のコロイボスという男が、徒競走で勝った。走ったのは「スタディオン」と呼ばれる一往路、およそ190メートルの直線である。競走路の長さの単位スタディオンは、後に競技場を意味する「スタジアム」の語源になった。最初の13回は、この徒競走しか行われなかったという。その後、回を追うごとに種目が加えられた。往復の競走、長距離の競走、五種競技とレスリング、ボクシング、四頭立ての戦車競走、そして殴る蹴る関節技を何でも許すパンクラティオン。勝者に与えられたのは、聖域のオリーブの枝で編んだ冠だけだった。

もっとも、BC776年という年がどこまで確かかは分からない。この年代は、BC400年ごろにエリスの学者ヒッピアスがまとめた歴代の優勝者の一覧に基づいている。300年以上前までさかのぼる一覧が正確に伝わっていたのかは疑わしく、後から整えられたものとみる研究者が多い。古い時代の名前のいくつかは、作られたものかもしれない。
それでも、この年はギリシア人にとって特別な意味を持つようになった。ギリシアには数百の都市国家があり、それぞれが自分の暦を持ち、年をその年の役人の名で呼んでいた。アテネで「誰それが筆頭の執政官だった年」と言っても、スパルタの人には何年のことか分からない。そこで歴史家たちは、4年ごとに開かれるこの競技会を共通の物差しにした。BC776年を第1回とし、「第何回オリンピアードの何年目」と数える。BC3世紀ごろの歴史家ティマイオスがこの数え方を広めたとされ、以後のギリシアの歴史書はこれに従って年を記した。カルタゴの建設のBC814年や、ローマの建国のBC753年という伝承の年代も、古代の学者たちがオリンピアードの年と照らし合わせて割り出したものである。

競技会の前には、エリスから使者が各地へ送り出され、聖なる休戦が告げられた。選手と観客が、戦争中の土地を通っても安全にオリンピアへ来て、帰れるようにするためである。戦争そのものを止めるものではなかったが、休戦を破ってエリスの領地に兵を入れたスパルタが、罰金を科されて競技会から締め出されたこともある。
参加できたのは、ギリシア語を話す自由な身分の男だけだった。選手は裸で競った。女性は競技に出られず、結婚した女性は観ることも禁じられ、破れば崖から突き落とされると定められていた、と2世紀の旅行家パウサニアスは書いている。ただし、未婚の娘たちは女神ヘラの祭りで別に駆け比べをした。戦車競走では、勝者とされたのは馬と戦車の持ち主だったので、BC4世紀の初めにはスパルタの王女キュニスカが、女性として初めて優勝者に名を連ねている。

優勝者は、故郷に帰ると英雄として迎えられた。像が建てられ、詩人が勝利を讃える歌を作り、生涯、町の役所で食事をふるまわれることもあった。南イタリアのクロトン出身のレスラー、ミロンは、BC6世紀に6度もオリンピアで優勝したと伝えられ、ピュタゴラスの教団に加わっていたとも言われる。BC5世紀には、彫刻家ペイディアスが黄金と象牙でゼウスの巨大な座像を作り、古代の世界の七不思議の一つに数えられた。
ギリシアがローマに組み込まれた後も、競技会は続いた。ローマの人々も参加するようになり、1世紀には皇帝ネロが自ら戦車競走に出て、途中で戦車から落ちたにもかかわらず優勝者とされた。

終わりがいつだったかは、はっきりしない。キリスト教を国の宗教とした皇帝テオドシウス1世が、390年代に異教の祭儀を禁じる法令を次々に出し、その流れの中で393年を最後に競技会は終わったとされることが多い。だが、直接それを示す確かな史料はなく、5世紀に入っても何らかの形で続いていたとみる研究者もいる。いずれにせよ、伝承の始まりから数えて1100年以上にわたって、4年ごとの祭りが続いたことになる。
聖域はやがて地震と洪水に埋もれ、忘れられた。19世紀に発掘が始まり、その遺跡に触発されたフランスのクーベルタンが、1896年の第1回近代オリンピックをアテネで開いた。いまもオリンピックの聖火は、このオリンピアのヘラ神殿の前で、太陽の光を集めて灯されている。