ペイシストラトスの僭主政
概要
自分で自分を傷つけて護衛を求め、その護衛でアクロポリスを取った。二度追われ、三度目に定着する。農民に金を貸し、祭りを大きくし、ホメロスを整えさせた。民主政の前の、人気のある独裁。
場所
37.98°N 23.73°E · ギリシア・アッティカ
関わった人(1)
ペイシストラトスBC600年頃–BC527年 · 僭主本文
紀元前594年、アテナイのソロンは、借金のかたに奴隷にされていた市民を解放し、財産に応じて政治に加われる仕組みを作った(ソロンの改革)。しかし改革は誰も満足させなかった。貧しい者は土地の再分配を望み、富める者は特権を失ったことを恨んだ。その後の30年、アテナイは有力者どうしの争いに明け暮れた。ヘロドトスとアリストテレスによれば、人びとは三つの党派に分かれていた。肥えた平野に土地を持つ貴族の「平野の党」、海岸に住む人びとの「海岸の党」、そして、アッティカの東の山がちな土地の貧しい人びとの「山地の党」である。山地の党を率いたのがペイシストラトスだった。名門の出で、隣国メガラとの戦いで港を奪って名を上げた男である。
紀元前561年ごろのある日、ペイシストラトスは、自分の体とラバに傷をつけ、血を流しながら馬車でアテナイの広場に駆け込んだ。郊外へ出かけたところを政敵に襲われ、命からがら逃げてきた、と訴えたのである。同情した民会は、彼の身を守るために棍棒を持つ護衛をつけることを認めた。ペイシストラトスはこの護衛を率いてアクロポリスを占拠し、アテナイの支配者になった。老いたソロンは、市民の目の前で何が起きているのかを見抜けないのか、と嘆いたと伝えられる。

最初の支配は長く続かなかった。平野の党と海岸の党が手を結んで、彼を追い出したのである。ところがまもなく海岸の党の首領メガクレスが、ペイシストラトスに、自分の娘を妻にするなら帰国を助けると申し出た。二人の企んだ帰国の演出を、ヘロドトスは呆れながら書き残している。背の高い美しい村の娘を女神アテナの姿に装わせ、戦車に乗せて町へ向かわせ、先触れの者たちに「アテナ女神がみずからペイシストラトスを連れ戻される」と触れ回らせた。町の人びとはそれを信じて娘を拝み、彼を迎え入れたという。ヘロドトスは、ギリシア人の中でも最も賢いとされるアテナイ人がこんな手に乗ったとは、と書き添えている。
しかし、メガクレスとの仲はすぐに壊れ、ペイシストラトスは再び追われた。今度の亡命は10年に及んだ。その間に彼は北のトラキアの金銀の鉱山から富を得て、ギリシア各地の有力者から兵と金を集めた。紀元前546年ごろ、傭兵を率いてアテナイの近くのマラトンに上陸し、パレネで迎え撃ったアテナイ軍を破って町に入った。三度目の支配は、紀元前528年ごろ彼が死ぬまで続いた。

ペイシストラトスは、ソロンの法と国の仕組みをほとんど変えなかった。役人の選挙も民会も続けられ、ただ要職には彼の一族と仲間が就いた。彼は貧しい農民に種や道具を買うための金を貸し、畑を耕し続けられるようにした。収穫に一定の税をかけ、その収入で町を整えた。地方の村々に巡回の裁判官を送り、農民がわざわざ町まで訴えに出てこなくてもよいようにした。アリストテレスは、こんな逸話を伝えている。ある日、田舎を見回っていたペイシストラトスが、石だらけの土地を耕している老人に、この畑から何がとれるのかと尋ねた。老人は相手が誰とも知らず、痛みと苦しみだけさ、そのうちの十分の一をペイシストラトスが取っていく、と答えた。ペイシストラトスはその正直さを喜び、老人の税を免じたという。
彼の時代、アテナイは目に見えて豊かになった。泉に水を引いて泉水場を作り、神殿を建て、アテナ女神の大祭であるパンアテナイア祭を盛大にした。ぶどう酒の神ディオニュソスの祭りを町の祭りとして整え、そこでテスピスが最初の悲劇を上演したと伝えられる。のちのアテナイの演劇の始まりである。ホメロスの叙事詩(『イリアス』『オデュッセイア』の成立)が祭りで決まった順に朗誦されるようにし、その本文をこの時代に整えさせたという言い伝えもある。アテナイの陶器が地中海の各地へ売られるようになったのもこのころだった。アリストテレスは、彼の治世を、僭主というよりは市民らしい統治で、のちの人びとが「クロノスの時代(黄金時代)」と呼んで懐かしんだと書いている。
ペイシストラトスの死後、息子のヒッピアスとヒッパルコスが跡を継いだ。紀元前514年、ヒッパルコスが個人的な恨みから二人の若者に暗殺されると、ヒッピアスは疑い深く苛酷になり、人心を失った。紀元前510年、アテナイから追われていた名門アルクメオン家がスパルタを動かし、ヒッピアスは追放された。彼はペルシアの王のもとへ逃れ、20年後、アテナイに攻め込むペルシア軍の道案内として、父がかつて上陸したマラトンに再び姿を現す(マラトンの戦い)。

ヒッピアスが去ったあと、アルクメオン家のクレイステネスが市民の組織を作り直し、アテナイの民主政の土台を築いた(クレイステネスの改革)。僭主の時代に、古い貴族の力はそがれ、農民の暮らしは安定し、アテナイの市民は一つの町の祭りを共に祝うようになっていた。民主政は、一人の人気のある独裁者が耕した土の上に芽を出したとも言える。