できごと

イオニアの反乱

Ionian Revolt
BC499年
重要度 4
古シベリアの狩猟採集民サハラの牧畜遊牧民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民アケメネス朝ペルシア西アフリカの穀作農民サーミヒンドゥーの諸王国ガリア諸部族カルタゴPlain-Pottery cultureメロエギリシア諸ポリスBrushed Pottery cultureイリュリア人Bell-shaped burials cultureMilograd cultureギリシア諸ポリスEastern Masurian cultureブレンミュエスサバア王国Pomeranian cultureBC499年ミレトス
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC499年の版図を描いています(21勢力)。

概要

ミレトスの僭主アリスタゴラスがナクソス遠征に失敗し、ペルシアに罰される前に反乱を起こした。アテナイが20隻、エレトリアが5隻送り、サルディスを焼いた。ダレイオスは「アテナイ人を忘れるな」と毎晩言わせた。BC494年、ミレトスが落ちた。6年後、マラトン。

場所

ミレトス
37.53°N 27.28°E · トルコ

本文

小アジアの西岸、エーゲ海に面したイオニア地方には、ギリシア人の都市が並んでいた(イオニア植民)。中でもミレトスは、黒海の岸まで数多くの植民市を出した豊かな港町で、哲学者タレスの生まれた学問の町でもあった。紀元前6世紀の半ば、これらの都市はペルシア帝国に従い、ペルシアの後ろ盾を得た僭主が治めていた。この時代のことは、ほとんどハリカルナッソス生まれのヘロドトスの『歴史』(ヘロドトス『歴史』)だけが伝えている。

ミレトスの僭主ヒスティアイオスは、ダレイオス1世のスキタイ遠征(ダレイオスのスキタイ遠征)でドナウ川の舟橋を守った手柄を認められたが、かえってその力を疑われ、王の相談役としてペルシアの都スーサに留め置かれていた。ミレトスを任されたのは、娘婿のアリスタゴラスである。紀元前500年ごろ、エーゲ海のナクソス島から追われた貴族たちがアリスタゴラスを頼ってきた。アリスタゴラスはサルディスのペルシアの総督アルタフェルネスを説き、200隻の船を出させて島を攻めた。だが遠征は4か月の包囲のすえに失敗し、アリスタゴラスは費用の借金と、ペルシアの怒りを背負うことになった。

サルディスのアクロポリスの遺構
サルディスのアクロポリスの遺構Wikimedia Commons Klaus-Peter Simon · CC BY 3.0

ちょうどそのころ、スーサのヒスティアイオスから一人の奴隷が届いた。ヘロドトスによれば、ヒスティアイオスは奴隷の頭を剃って文字を刺青し、髪が伸びるのを待って送り出したという。頭を剃れ、と伝えられたアリスタゴラスがそのとおりにすると、反乱せよ、と書いてあった。紀元前499年、アリスタゴラスは自ら僭主の座を降りてミレトスに市民の平等な政治を約束し、ほかのイオニアの都市でも、ペルシアの立てた僭主たちを追い出させた。

ペルシアと戦うには、本土のギリシア人の助けが要る。アリスタゴラスはまずスパルタへ行き、王クレオメネスに、青銅の板に刻んだ世界の地図を見せて、アジアの富を説いた。だが、海からスーサまでは3か月かかると口を滑らせると、王は日没までにスパルタから出て行けと命じた。アリスタゴラスがなおも金で王を動かそうとすると、そばにいた8、9歳の王の娘ゴルゴが、父上、この客はあなたを堕落させます、と言ったという。アリスタゴラスは次にアテナイへ行き、ミレトスはアテナイの植民市だと訴えて、20隻の船を出させた。一人のクレオメネスを欺けなかった男が、3万人のアテナイ人を欺けたのだから、一人より大勢を欺くほうがたやすいらしい、とヘロドトスは書いている。エウボイア島のエレトリアも、かつてミレトスに助けられた恩に報いて5隻を送った。

紀元前498年、イオニアの反乱でギリシア軍がサルディスを焼く様子
紀元前498年、イオニアの反乱でギリシア軍がサルディスを焼く様子Wikimedia Commons George Derville Rowlandson · Public domain

紀元前498年、イオニアとアテナイの兵はエフェソスから内陸へ進み、ペルシアの西の拠点サルディスを襲った。城は落とせなかったが、葦葺きの家に火が移って下町が燃え、女神キュベレの神殿も焼けた。帰り道、エフェソスの近くでペルシア軍に追いつかれて大敗し、アテナイは船を引き揚げて、二度と戻らなかった。ヘロドトスは、この20隻こそが、ギリシア人と異民族の双方にとって災いの始まりだった、と書いた。

ダレイオスは、サルディスが焼かれたと聞くと、アテナイ人とは何者かと尋ね、弓を取って天へ矢を放ち、ゼウスよ、アテナイ人に報いを受けさせたまえ、と言った。そして召使いに、食事のたびに三度、王よ、アテナイ人を忘れたもうな、と言わせた、とヘロドトスは伝える。

ギリシアの重装歩兵(右)とペルシアの戦士(左)の戦いを描いた紀元前5世紀の杯
ギリシアの重装歩兵(右)とペルシアの戦士(左)の戦いを描いた紀元前5世紀の杯Wikimedia Commons Unknown · CC0

反乱は北のヘレスポントスとビュザンティオン、南のカリア、そしてキプロス島へと広がった。だがペルシアは陸と海から一つずつ取り戻していった。紀元前497年にはキプロスが再び従えられた。アリスタゴラスは形勢が悪くなるとトラキアへ逃れ、そこで土地の人々との戦いで死んだ。紀元前494年、ペルシアの艦隊600隻がミレトスに迫り、イオニアの諸都市は353隻の三段櫂船を沖のラデ島の近くに集めた。だがペルシアは裏で各都市に離反を誘い、戦いが始まると、サモスの船の多くが戦列を離れて逃げ、レスボスもそれに続いた。最後まで戦ったキオスの船も力尽き、イオニアの艦隊は崩れた。

ミレトスは陸と海から囲まれて落ちた。男の多くは殺され、女と子どもは奴隷としてスーサへ送られ、生き残った人々はペルシア湾に近いティグリス川の河口の地に移された。郊外のディデュマにあったアポロンの神殿も焼かれた。翌年、アテナイで詩人フリュニコスが悲劇『ミレトスの陥落』を上演すると、観客は泣き崩れ、詩人は身内の不幸を思い出させたとして1000ドラクマの罰金を科され、この劇の上演は禁じられた。ヒスティアイオスはその後も各地で戦ったが、捕らえられてサルディスで串刺しにされた。それを知ったダレイオスは、首を洗って丁重に葬らせ、彼は自分によく尽くした男だった、と言ったという。

イオニアを平らげたペルシアは、次に、反乱を助けたアテナイとエレトリアに目を向けた。紀元前492年、将軍マルドニオスの艦隊はギリシア北部のアトス岬で嵐にあって沈んだ。紀元前490年、ペルシアの軍はエウボイア島に渡ってエレトリアを焼き、そのままアッティカのマラトンの浜に上陸した(マラトンの戦い)。アリスタゴラスの借金と、ヒスティアイオスの刺青と、アテナイの20隻から、ペルシア戦争が始まった。ミレトスはのちに再建されたが、港は川の運ぶ土砂で埋まり、遺跡はいま海から10キロほど離れた内陸にある。

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