レウクトラの戦い

概要
斜線陣でスパルタの重装歩兵を破り、その無敵の評判が終わった。
場所
38.29°N 23.13°E · ギリシア・ボイオティア
関わった人(1)
エパメイノンダスBC418年頃–BC362年 · テーバイ側 · 総指揮本文
紀元前371年の夏、ギリシア中部ボイオティアの平原レウクトラで、テーバイの軍がスパルタの軍を正面から打ち破った。ギリシアで最も強いと信じられてきたスパルタの重装歩兵が、野戦で完敗した。その評判は、この一日で崩れた。
30年あまり前、スパルタはペロポネソス戦争に勝ち、アテネを降してギリシアの覇者になっていた。だがその支配は強引で、各地で反発を買った。紀元前382年、スパルタ軍はテーバイの城塞を不意打ちで占領し、親スパルタの政権を置いた。3年後、亡命していたテーバイの若者たちが町に忍び込み、政権の要人を殺して城塞を取り返した。その中心にいたのがペロピダスで、親友のエパメイノンダスとともに、テーバイをボイオティア地方の諸都市をまとめる国に育てていく。

紀元前371年、ギリシアの諸国はスパルタで和平の会議を開いた。テーバイの代表として出たエパメイノンダスは、テーバイだけでなくボイオティア全体の名で署名すると言い張った。スパルタの王アゲシラオスは、それを認めず、テーバイを和平から外した。和平の直後、もう一人のスパルタ王クレオンブロトスが軍を率いてボイオティアに攻め込んだ。
スパルタ側はおよそ1万、テーバイ側は6000から7000ほどだったとされる。数でも、兵の質の評判でも、スパルタが上だった。

当時の重装歩兵の戦いには、決まった型があった。兵は盾と槍を持って横に長く並び、8列から12列ほどの厚さで、ぶつかり合って押し合う。最も強い部隊は右翼に置く。どちらの軍も右翼が相手の左翼を押し込み、自分の左翼は押されるので、両軍が時計回りに回るような形になる。スパルタ軍の右翼には、王とスパルタの市民の精鋭がいた。
エパメイノンダスは、その型を裏返した。精鋭を左翼に集め、50列という異例の厚さに組んで、スパルタの右翼、王と精鋭がいるところへまっすぐぶつけた。中央と右翼の弱い部隊は、斜めに下げて、戦いに入るのを遅らせた。全体が斜めに並ぶことから、後に斜線陣と呼ばれる。敵の最も強いところに、自分の最も強いところを、圧倒的な厚さでぶつける。そこさえ崩せば、残りは戦わずに崩れる、という考え方だった。
左翼の先頭に立ったのが、ペロピダスの率いる神聖隊である。300人の精鋭で、恋人どうしの男性150組からなっていたと伝えられる。愛する者の前で恥ずかしい振る舞いはできないから、決して退かない、という考えで組まれた部隊だった。
戦いは騎兵の衝突から始まり、テーバイの騎兵がスパルタの騎兵を追い散らした。逃げ戻った騎兵が味方の隊列を乱したところへ、厚い縦隊が突っ込んだ。スパルタの右翼は押し潰され、王クレオンブロトスは戦死した。スパルタ市民の兵700人のうち、400人ほどが死んだと、同時代のクセノフォンは書いている。
数字だけ見れば、ほかの戦いより大きな損害ではない。だがスパルタにとっては致命的だった。スパルタ市民は、厳しい訓練を受けた少数の戦士で、もともと数が減り続けていた。一度に400人を失えば、もう補えない。そして何より、スパルタの重装歩兵は負けない、という評判が失われた。
勝ったテーバイは、すぐに攻勢に出た。翌年、エパメイノンダスは大軍を率いてスパルタの本拠地ラコニアに攻め込んだ。数百年間、外敵に踏み込まれたことのない土地だった。さらに、スパルタが何世紀も奴隷のように従わせてきたメッセニアの人々を解放し、新しい都市を建てさせた(第一次メッセニア戦争から始まった支配が、ここで終わる)。農業を奴隷の労働に頼っていたスパルタは、その土台を失い、二度とギリシアの主導権を取り戻せなかった。

だが、テーバイの覇権も長くは続かなかった。紀元前362年、マンティネイアの戦いで、テーバイは再び勝ったが、エパメイノンダスがその戦いで死んだ。テーバイを支えていたのは一人の指揮官の才能で、彼を失うと、勢いはしぼんだ。
レウクトラの戦術を受け継いだのは、北の国だった。マケドニアの王子だった若いフィリッポス2世は、10代のころ、人質としてテーバイに数年間住み、エパメイノンダスやペロピダスの軍を間近に見ていたとされる。王になったフィリッポスは、軍を作り直し、紀元前338年のカイロネイアの戦いで、テーバイとアテネの連合軍を破った。神聖隊はこの戦いで全滅したと伝えられる。3年後、フィリッポスの子アレクサンドロス3世は、反乱を起こしたテーバイの町を破壊した(テーバイの破壊)。