人物

クセルクセス1世

Xerxes I
BC518年頃 – BC465年(享年53・推定)
アケメネス朝ペルシア重要度 4

概要

父の雪辱を期してギリシアへ大軍を送ったが、サラミスで艦隊を失った。

所属

アケメネス朝ペルシア

関わったできごと(2)

テルモピュライの戦いBC480年8月 · ペルシア側 · 総指揮サラミスの海戦BC480年9月 · ペルシア側 · 総指揮

本文

紀元前518年頃に生まれた。父はダレイオス1世、母アトッサは帝国を築いたキュロス大王の娘である。ダレイオスには即位前にもうけた年長の息子がいたが、跡継ぎに選ばれたのはクセルクセスだった。ヘロドトスは、王位に就いてから生まれた最初の子であること、そしてキュロスの血を引いていることが決め手になったと書いている。母アトッサの宮廷での力が大きかったとも言われる。

National Museum of Iran Darafsh (785)
Wikimedia Commons Darafsh · CC BY 3.0

紀元前486年、父の死で王位を継いだ。30代前半である。受け継いだアケメネス朝ペルシアは、エジプトからインダス川までを治める、当時の世界で最大の国だった。即位するとすぐ、エジプトで起きた反乱を鎮め、続いてバビロンの反乱も押さえ込んだ。バビロンでは神殿を損ない、神像を持ち去ったと伝えられるが、どこまで事実かは議論がある。

父の代に、小アジアのギリシア人の町が反乱を起こし、アテナイがこれを助けた。報復に向かったペルシアの軍は、紀元前490年、マラトンの戦いで敗れていた。帝国にとって、ギリシアは辺境の小さな町々にすぎない。だが、それに逆らわれたまま放っておくことは、王の威信が許さなかった。

マラトンの戦いに関わる図版:Scene of the Battle of Marathon
マラトンの戦いWikimedia Commons John Steeple Davis · Public domain

クセルクセスは数年をかけて準備した。艦隊が嵐の多い岬を回らずに済むよう、ギリシア北部のアトス半島の付け根に運河を掘らせた。ヨーロッパとアジアを隔てるヘレスポントス海峡には、船を並べてつないだ橋を架けさせた。最初の橋が嵐で壊れると、王は怒って海に300回の鞭を打たせ、足枷を投げ込ませたとヘロドトスは書く。傲慢さを示す話として書かれたもので、どこまで本当かは分からない。

紀元前480年、大軍が海峡を渡った。ヘロドトスは兵の数を170万と書き、従者まで含めると500万を超えたとしている。これは補給の面からもありえない数で、現代の推計では陸兵は10万から30万ほどとされる。ヘロドトスによれば、アビュドスで全軍を見渡した王は、ふいに涙を流した。これだけの人間が、100年後には一人も生きていない、と言ったという。

北ギリシアの町々の多くは戦わずに服従した。テルモピュライの狭い道で、スパルタ王レオニダス1世の率いる軍に3日間足止めされたが、裏道を回って打ち破った(テルモピュライの戦い)。アテナイの市民はすでに町を捨てて島へ逃れており、クセルクセスは空になったアテナイに入って、アクロポリスの神殿を焼いた。

テルモピュライの戦いに関わる図版:Léonidas aux Thermopyles - Jacques-Louis David - Musée du Louvre Peintures INV 3690 ; L 3711
テルモピュライの戦いWikimedia Commons Jacques-Louis David · Public domain

残るは海の決着だった。アテナイのテミストクレスは、狭いサラミス水道へペルシアの艦隊を誘い込もうと、偽りの知らせを王のもとへ送ったとされる。紀元前480年秋、クセルクセスは岸辺の山の斜面に玉座を据え、書記を控えさせて海戦を見物した。手柄を立てた者を記録させるためである。しかし狭い水道で大艦隊は身動きが取れず、次々に沈められた(サラミスの海戦)。ヘロドトスによれば、味方の女王アルテミシアの奮戦を見た王は、「男たちが女になり、女たちが男になった」と言った。

敗れた後、クセルクセスは本国へ引き揚げた。海峡の橋を壊されて退路を断たれることを恐れたとも言われる。ギリシアには将軍マルドニオスと陸軍の一部を残したが、翌紀元前479年、この軍はプラタイアの戦いで敗れ、マルドニオスも戦死した。同じ頃、小アジアの岸でもペルシア軍は敗れた。ギリシア側はこの勝利を足がかりに、アテナイを中心とするデロス同盟を作っていく。

プラタイアの戦いに関わる図版:Scene of the Battle of Plataea
プラタイアの戦いWikimedia Commons John Steeple Davis · Public domain

ギリシアから見れば大敗だが、ペルシアから見れば帝国の西の端で起きた一つの失敗だった。クセルクセスはその後もギリシアに軍を向けなかったが、帝国そのものは揺らいでいない。

治世の後半、王は都ペルセポリスの造営に力を注いだ。父が始めた謁見の大広間を仕上げ、帝国の各民族を描いた浮き彫りで飾った。門の両脇に人の頭を持つ巨大な牡牛の像を置いた「万国の門」や、百本の柱の広間も、この王の代に建てられ、あるいは建てはじめられた。碑文の中でクセルクセスは、悪しき神々を祀る場所を壊し、アフラ・マズダを祀らせたと誇っている。

ペルセポリスで発見された浮き彫り。玉座に座るダレイオス1世とその後ろに立つ王太子クセルクセスが描かれている。
ペルセポリスで発見された浮き彫り。玉座に座るダレイオス1世とその後ろに立つ王太子クセルクセスが描かれている。Wikimedia Commons Jona Lendering · CC0

旧約聖書の『エステル記』に出てくるペルシア王アハシュエロスは、クセルクセスのことだと考えられている。ユダヤ人の娘エステルが王妃となり、民を滅ぼす企みから救う物語だが、歴史上の出来事としては確かめられていない。

紀元前465年、クセルクセスは宮廷の中で暗殺された。手を下したのは近衛の長アルタバノスとされ、宦官が手引きしたとも伝わる。50代前半だった。跡を継いだのは息子のアルタクセルクセス1世である。

ナクシェ・ロスタムの王墓に刻まれたクセルクセス1世の浮き彫り
ナクシェ・ロスタムの王墓に刻まれたクセルクセス1世の浮き彫りWikimedia Commons A.Davey · CC BY 2.0

クセルクセスの姿は、ほとんどが敗れた相手であるギリシア人の筆を通して伝わっている。ヘロドトス『歴史』は、海を鞭打ち、栄華の果てに破れる王を、驕りの戒めとして描いた。それから150年後、アレクサンドロスがペルセポリスを焼いたとき、それはクセルクセスがアテナイを焼いたことへの報復だと言われた(ペルセポリス炎上)。ペルシア自身の記録は碑文と行政文書くらいしか残らず、王が何を考えていたのかは、ほとんど分からない。

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