マラトンの戦い

概要
アテナイ重装歩兵がペルシア軍を撃退した。第一次ペルシア戦争の帰趨を決める。
場所
38.15°N 23.96°E · ギリシア・アッティカ
関わった人(1)
ダレイオス1世BC550年–BC486年 · ペルシア側 · 派兵本文
紀元前499年、小アジア(いまのトルコ西部)のイオニア地方のギリシア人の町々が、支配者のペルシアに背いた(イオニアの反乱)。アテナイとエレトリアは船を送ってこれを助け、ペルシアの地方の都サルディスを焼いた。反乱は6年後に鎮められたが、ペルシア王ダレイオス1世は、海の向こうから手を出したこの二つの町を忘れなかった。ヘロドトスは、王が食事のたびに召使に「王よ、アテナイ人を忘れたもうな」と三度言わせた、と伝えている。
紀元前490年、ダレイオスは将軍ダティスとアルタプレネスに艦隊を預け、エーゲ海を渡らせた。艦隊は島々を従えながら進み、まずエレトリアを包囲した。町は6日間持ちこたえたが、内通者が門を開いて陥落した。神殿は焼かれ、住民は捕らえられた。次はアテナイの番だった。ペルシア軍には、かつてアテナイを追われた元の僭主ヒッピアスが同行していた。彼の案内で、艦隊はアテナイの北東約40キロのマラトンの浜に上陸した。

アテナイは市民の重装歩兵約9000を出し、小さな町プラタイアから来た約1000がこれに加わった。同時に、走者のフィリッピデスをスパルタへ送り、援軍を求めた。彼は約240キロを2日ほどで走り抜けたとヘロドトスは書く。スパルタは援軍を約束したが、祭りの期間が明けて月が満ちるまでは出陣できないと答えた。
マラトンでは、両軍が数日にらみ合った。アテナイの10人の将軍の意見は、戦うか待つかで半々に分かれた。主戦論を唱えたのは、かつてペルシアの支配下で暮らした経験を持つミルティアデスだった。軍事長官カリマコスの一票で、戦うことが決まった。ペルシア側が騎兵を船に戻しかけていた隙を突いた、という説もあるが、これはずっと後の時代の史料による。

アテナイ軍は、戦列の長さをペルシア軍に合わせるため、中央を薄くし、両翼を厚くした。合図とともに、重装歩兵の密集した隊列が走って距離を詰めた。ヘロドトスは8スタディオン(約1.5キロ)を走ったと書くが、重い武具を着けてその距離を駆け抜けるのは難しく、弓の届く最後の200メートルほどを走ったとみる研究者も多い。いずれにせよ、矢を浴びる時間を短くするための突撃だった。
ペルシア軍の中央は、アテナイ軍の中央を押し返した。だが両翼ではアテナイ軍が勝ち、敵を崩すと、追いかけずに向きを変えて、中央のペルシア兵を両側から挟んだ。ペルシア兵は船へ逃げ、浜で激しい戦いになった。アテナイ兵の一人は、逃げる船の船尾をつかんだところを斧で手を切り落とされて死んだという。この兵士は、悲劇作家アイスキュロスの兄弟だった。アイスキュロス自身もこの戦いに加わっている。

ヘロドトスは、ペルシア側の死者を6400、アテナイ側を192と書く。ペルシアの数字は誇張とみる人もいるが、アテナイ側の192人はおそらく正確で、損害の差が大きかったことは疑いない。カリマコスも戦死した。
ヘロドトスは、戦いの後、アテナイの近くの山の上で盾がきらめき、ペルシア側への合図だと噂されたことを書き留めている。町の中に内通者がいるという疑いで、有力な一族の名が挙がったが、ヘロドトス自身はその一族をかばっており、真相は分からない。

戦いはそこで終わらなかった。ペルシアの艦隊は南へ回り、守りの手薄なアテナイの町を直接突こうとした。アテナイ軍はその日のうちに急ぎ町へ引き返し、艦隊が沖に着いたときには、すでに陣を構えていた。ペルシア軍は上陸をあきらめて帰っていった。スパルタの援軍が着いたのは、戦いの翌日だった。
勝報を伝えるためにマラトンからアテナイまで走った兵士が、「勝った」と告げて息絶えた、という話がある。これがマラソン競技の由来として語られる。だがこの話を伝えるのは、戦いから数百年後のプルタルコスやルキアノスの著作で、ヘロドトスの『歴史』(ヘロドトス『歴史』)には出てこない。ヘロドトスが書いたのは、戦いの前にスパルタへ走った走者の話である。1896年、アテネで開かれた第1回近代オリンピックで、この伝説をもとにしたマラソンが行われた。

マラトンの勝利は、ペルシアに勝てるという自信をアテナイ人に与えた。とくに、自ら武具をそろえて戦う市民の重装歩兵が勝ったことは、市民が政治に参加する民主政の誇りと結びついた。アイスキュロスは晩年、自分の墓碑に、悲劇作家としての業績ではなく、マラトンで戦ったことだけを刻ませたと伝えられる。
10年後、ダレイオスの子クセルクセス1世が大軍を率いて再びギリシアに攻め寄せる。テルモピュライの戦い、そしてサラミスの海戦へと続く第二次の戦いである。マラトンで死んだ192人を葬った塚は、いまも戦場の跡に残っている。