できごと

ペロポネソス戦争

Peloponnesian War
BC431年 – BC404年
期間を持つできごと重要度 5
古シベリアの狩猟採集民サハラの牧畜遊牧民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民アケメネス朝ペルシア西アフリカの穀作農民サーミガリア諸部族カルタゴPlain-Pottery cultureメロエギリシア諸ポリスBrushed Pottery cultureイリュリア人Bell-shaped burials cultureMilograd cultureギリシア諸ポリスEastern Masurian cultureブレンミュエスサバア王国Pomeranian cultureBC431年アテナイ
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概要

アテナイとスパルタが27年戦い、ギリシアの都市国家は疲弊した。トゥキュディデスが同時代史として書き残す。

場所

アテナイ
37.98°N 23.73°E · ギリシア・アッティカ

関わった人(1)

ペリクレスBC495年頃–BC429年 · アテナイ側 · 指導

本文

紀元前431年、ギリシアの二大強国、海のアテナイと陸のスパルタが戦争に入った。休戦を挟んで27年続いたこの戦いは、ギリシアのほとんどの都市国家を巻き込み、アテナイの敗北で終わる。そして、この戦争には、自ら戦争に加わったアテナイ人トゥキュディデスによる、同時代の詳細な記録が残っている。

戦争の種は、ペルシア戦争の勝利の中にあった。ペルシアの再来に備えて、アテナイはエーゲ海の都市を集めてデロス同盟の結成を作った。だが同盟はやがて、アテナイが加盟国から貢納金を取り立て、離脱を武力で許さない、事実上の海上帝国へと変わっていく。同盟の金庫はアテナイに移され、その資金の一部でパルテノン神殿が建てられた。陸の強国スパルタと、ペロポネソス半島の同盟国は、膨張するアテナイを警戒した。

ペロポネソス戦争の両陣営。赤がペロポネソス同盟軍の進路、青がデロス同盟軍の進路
ペロポネソス戦争の両陣営。赤がペロポネソス同盟軍の進路、青がデロス同盟軍の進路Wikimedia Commons U.S. Army Cartographer · Public domain

直接のきっかけは、周辺の都市どうしの争いだった。コリントスの植民市コルキュラ(いまのケルキラ島)がコリントスと争い、アテナイと同盟を結んだ。アテナイの同盟国でコリントスとも縁の深いポテイダイアが離反し、アテナイに包囲された。さらにアテナイは、隣の都市メガラの商人を、自分たちの同盟国の港と市場から締め出した。コリントスはスパルタに、アテナイを止めなければ同盟を去ると迫った。

トゥキュディデスは、こうした個々の争いは表向きの理由にすぎないと書いた。最も真実に近いが、最も語られない原因は、アテナイの力が大きくなり、それがスパルタに恐れを抱かせ、戦争へ追いやったことだ、と。台頭する強国と、それを恐れる既存の強国が戦争に向かうという構図は、21世紀になってアメリカの政治学者が「トゥキュディデスの罠」と名付け、米中関係を論じる言葉として広まった。ただ、その使い方が原典の読み方として適切かどうかには異論もある。

トゥキュディデス『ペロポネソス戦争史』の英訳本(トマス・ホッブズ訳)
トゥキュディデス『ペロポネソス戦争史』の英訳本(トマス・ホッブズ訳)Wikimedia Commons Thucydides (author) · Public domain

アテナイの指導者ペリクレスの戦略ははっきりしていた。陸でスパルタの重装歩兵と戦えば勝ち目はない。だから田園を捨てて市民を城壁の中に入れ、外港ペイライエウスまで延びた長い城壁で海とつなぎ、海から食料を運び込んで持ちこたえる。その間に艦隊でペロポネソスの沿岸を荒らす。スパルタ軍は毎年アッティカに攻め込んで畑やオリーブの木を荒らしたが、城壁は落とせなかった。

計算を狂わせたのは疫病だった。紀元前430年、人で溢れかえった城壁の中でアテナイの疫病が流行し、数年のうちに人口の4分の1から3分の1が死んだとされる。トゥキュディデス自身も罹り、生き延びて、その症状と、人々が死を前にして法も神も恐れなくなっていく様子を書き残した。ペリクレスも翌年、この病で世を去った。病気の正体については、チフスや天然痘など諸説あり、決着していない。

アテナイの疫病に関わる図版:Plague in an Ancient City LACMA AC1997.10.1 (1 of 2)
アテナイの疫病Wikimedia Commons Michiel Sweerts · Public domain

ペリクレスの後、アテナイの政治は、民会で群衆を動かす扇動的な政治家たちに左右されるようになる。紀元前425年にはピュロス沖の島でスパルタの重装歩兵を包囲して降伏させ、アテナイは優位に立ったが、北方ではスパルタの将軍ブラシダスに要地アンフィポリスを奪われた。その救援に間に合わなかった将軍の一人がトゥキュディデスで、責任を問われて20年の亡命生活に入り、かえって両陣営を見聞きしながら記録を書き続けることになった。紀元前422年のアンフィポリスの戦いで両軍の主戦論者が共に戦死すると、翌年、ニキアスの和約が結ばれた。

和約は長続きしなかった。紀元前416年、アテナイは中立を望んだ小島メロスに服従を迫り、拒まれると男たちを殺し、女と子どもを奴隷にした。トゥキュディデスは、その前の交渉を、強者は為し得ることを為し、弱者は譲らざるを得ないことを譲る、という冷徹な問答として描いた。翌年、アテナイは野心家のアルキビアデスの主唱で、大艦隊をシチリアに送った。シケリア遠征である。アルキビアデスは出征直後に本国から罪を問われてスパルタへ寝返り、遠征軍は紀元前413年、シュラクサイで全滅した。生き残った数千人は石切り場に閉じ込められ、多くがそこで死んだ。

シケリア遠征に関わる図版:Destruction of the Athenian army at Syracuse
シケリア遠征Wikimedia Commons John Steeple Davis · Public domain

アテナイは、それでも9年持ちこたえた。だがスパルタはアッティカに常駐の砦を築き、2万人を超える奴隷が逃げ込んだとトゥキュディデスは伝える。かつて共通の敵だったペルシアは、スパルタに艦隊を作る資金を出した。アテナイの国内では民主政が一時倒され、寡頭派が政権を握る事件も起きた。紀元前405年、スパルタの将軍リュサンドロスが、ヘレスポントス海峡のアイゴスポタモイでアテナイの艦隊をほぼ無傷のまま捕らえ、海の補給を断たれたアテナイは翌年降伏した。長い城壁は、笛の音に合わせて取り壊されたという。アテナイにはスパルタの後ろ盾で三十人政権が置かれた。

トゥキュディデスの記述は、紀元前411年の途中で途切れている。続きはクセノフォンらが書いた。トゥキュディデスは、神々の意志や神託ではなく、人間の利害と恐怖と名誉への欲から、出来事を説明しようとした。自分の書いたものは、一時の聴衆を喜ばせるためではなく、永遠の財産として書かれた、と彼は述べている。戦争の時代を生きたソクラテスも、兵士として戦場に立った一人だった。

アテナイ貢租表の断片、紀元前425〜424年
アテナイ貢租表の断片、紀元前425〜424年Wikimedia Commons Marco Prins · CC0

戦争の後、ギリシアの覇権はスパルタ、次いでテーバイへと移ったが、どの都市も長くは保てなかった。互いに消耗し合った都市国家の世界は、約70年後の紀元前338年、北のマケドニア王フィリッポス2世に屈することになる。

動画(1)

011 ペルシア戦争・ペロポネソス戦争 世界史20話プロジェクト第02話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第11講「ペルシア戦争・ペロポネソス戦争」

出典(1)

トゥキュディデス 『戦史』第1巻 1–23

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