できごと

サラミスの海戦

Battle of Salamis
BC480年9月
重要度 5
サラミスの海戦に関わる図版:Battle of salamis
Battle of salamis Wikimedia Commons The Department of History, United States Military Academy · Public domain

概要

狭い海峡に誘い込んでペルシア艦隊を破った。ギリシアの独立が守られる。

場所

サラミス
37.96°N 23.50°E · ギリシア・サラミス島沖

関わった人(2)

クセルクセス1世BC518年頃–BC465年 · ペルシア側 · 総指揮テミストクレスBC524年頃–BC459年頃 · ギリシア側 · 総指揮

本文

紀元前480年の秋、アテナイの市街は空っぽだった。ペルシア王クセルクセス1世の大軍が北から迫り、市民は女性や子ども、老人を対岸のサラミス島やペロポネソス半島へ逃がし、戦える男たちは船に乗り込んだ。ペルシア軍はアクロポリスに残ったわずかな守り手を倒し、神殿に火を放った。燃えるアクロポリスの煙は、サラミスの海峡に集まったギリシアの艦隊からも見えたはずである。

10年前のマラトンの戦いで、アテナイはダレイオス1世の遠征軍を退けていた。その子クセルクセスは、今度は帝国の総力を挙げた。ヘレスポントス海峡に船を並べて橋を架け、アトス半島の付け根には艦隊のための運河を掘らせた。ヘロドトスは陸軍を数百万、艦船を1200隻余りと書いているが、陸軍の数は明らかに誇張で、実際には十数万から二十数万程度だったとする見方が多い。艦隊も数百隻規模だったと考えられている。

マラトンの戦いに関わる図版:Scene of the Battle of Marathon
マラトンの戦いWikimedia Commons John Steeple Davis · Public domain

アテナイには、それに備えた人物がいた。テミストクレスである。紀元前483年頃、アッティカのラウレイオン銀山で豊かな鉱脈が見つかると、市民に分配しようという声を退け、その収益で三段櫂船を建造させた。表向きの相手は近くの島アイギナだったが、その船団が、ギリシア最大の艦隊となってサラミスに浮かんでいた。デルフォイの神託が「木の壁」に頼れと告げたとき、テミストクレスはそれを船のことだと解いて、市民に船で戦うよう説いたと伝えられる。

8月、陸ではスパルタ王レオニダスがテルモピュライの戦いで全滅し、海ではアルテミシオン沖で艦隊が決着のつかない戦いを交えたのち南へ退いた。ギリシア連合艦隊は約370隻。総指揮はスパルタのエウリュビアデスがとっていた。ペロポネソスの諸都市は、半島の付け根のコリントス地峡まで下がって守りを固めたいと主張した。テミストクレスは、地峡へ下がれば艦隊はばらばらに逃げ散ると反対し、それでも退くなら、アテナイは船ごと市民を乗せてイタリアへ移住する、と脅したという。

テルモピュライの戦いに関わる図版:Léonidas aux Thermopyles - Jacques-Louis David - Musée du Louvre Peintures INV 3690 ; L 3711
テルモピュライの戦いWikimedia Commons Jacques-Louis David · Public domain

議論がまとまらない中、テミストクレスは策を打った。自分の子どもの養育係だったシキンノスという男を、ひそかにペルシアの陣営に送り、ギリシア人は逃げ出そうとしている、今のうちに退路を断てば一網打尽にできる、と伝えさせたのである。クセルクセスはこれを信じ、夜のうちに艦隊を動かして海峡の出口を塞いだ。退路を断たれたギリシアの艦隊は、戦うほかなくなった。テミストクレスの政敵で、陶片追放から呼び戻されていたアリステイデスが、包囲をくぐって知らせを届けたと伝えられる。

夜が明けると、ペルシアの艦隊は狭い海峡に入ってきた。フェニキア、エジプト、イオニアのギリシア人などから集めた船団である。広い海なら数の多さは武器になるが、海峡では横に並びきれず、後ろから押し寄せる船と前の船がぶつかり合って身動きが取れなくなった。ギリシアの重い三段櫂船は、船首の衝角で敵の船腹に突っ込み、櫂を折り、乗り込んで戦った。

三段櫂船(復元)
三段櫂船(復元)Wikimedia Commons Filos96 · Public domain

サラミス島とアッティカ本土のあいだの水道は、最も狭いところで幅1〜2キロほどしかない。プルタルコスは、テミストクレスが毎朝決まった時刻に海から吹く風と、それが立てるうねりを待って攻撃の合図を出したと伝えている。甲板が高く重心の高いペルシアの船は、うねりで横腹を向けてしまい、そこを突かれたというのである。どこまでが事実かは分からないが、地の利を知る側が戦う場所と時を選んだことは確かだった。

クセルクセスは、海峡を見下ろす岸の高台に玉座を据えて戦いを見物した。誰がよく戦ったかを書記に書き留めさせていたという。ペルシア側で戦ったカリアの女王アルテミシアが、追われて味方の船に突っ込んで沈めたのを、王は敵船を沈めたと勘違いし、男は女になり、女は男になった、と嘆いた。ヘロドトスはそう伝えている。ヘロドトス自身、アルテミシアと同じハリカルナッソスの出身だった。

日が暮れるころには、ペルシアの艦隊は大きな損害を出して退いていた。海の補給線を失えば、大軍は食べていけない。クセルクセスは本国へ引き揚げ、将軍マルドニオスに精鋭の陸軍を預けてギリシアに残した。この軍は翌紀元前479年、プラタイアの戦いでスパルタを中心とするギリシア軍に敗れ、同じ頃、小アジアの沖のミュカレでもペルシアの艦隊が焼かれた。ギリシア本土への大遠征は、これを最後に行われなかった。

プラタイアの戦いに関わる図版:Scene of the Battle of Plataea
プラタイアの戦いWikimedia Commons John Steeple Davis · Public domain

この海戦には、戦った者が書いた記録がある。悲劇作家アイスキュロスは自らサラミスで戦ったとされ、8年後にアイスキュロス『ペルシア人』を上演した。ペルシアの宮廷を舞台に、敗戦の知らせを受ける側の嘆きを描いたもので、現存する最古のギリシア悲劇である。ヘロドトスの『歴史』は、そのほぼ一世代後に、この戦いを大きな物語の頂点として書いた。

三段櫂船を漕いだのは、重装歩兵の武具を自分で揃えられない、財産の少ない市民たちだった。1隻に170人ほどの漕ぎ手が要る。国を救ったのは自分たちだという自負が、彼らの政治への発言力を強め、アテナイの民主政を押し進めたとされる。戦後、アテナイはデロス同盟の結成の盟主として海上の帝国を築いていく。一方のテミストクレスは、やがて陶片追放で国を追われ、最後はかつての敵ペルシアの王に迎えられて生涯を終えた。

出典(1)

ヘロドトス 『歴史』第8巻 40–96

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