デロス同盟の結成
概要
ペルシアへの備えとして結ばれたが、やがてアテナイの帝国に変わっていく。
場所
37.98°N 23.73°E · ギリシア・アッティカ
本文
紀元前479年、ギリシアの連合軍はプラタイアの戦いとミュカレの戦いでペルシア軍を破った。だがペルシア帝国そのものは倒れていない。エーゲ海の東岸や島々のギリシア人の町は、ペルシアの支配から離れたばかりで、いつ取り返されてもおかしくなかった。戦いを続けるには、海の上で艦隊を持ち続ける必要があった。
翌年、連合艦隊を率いていたのはスパルタのパウサニアスだった。だがビザンティオンを攻め落とした後、彼はペルシア風の衣服をまとい、ペルシア人の護衛を連れ、同盟の兵たちを横柄に扱った。ペルシア王と内通しているという疑いまでかけられ、スパルタは彼を呼び戻した。島々やイオニアの町の人々は、スパルタではなく、アテナイに指導を求めた。スパルタも、遠い海での戦いに深入りすることを望まず、身を引いた。

こうして紀元前478年から翌年にかけて、アテナイを盟主とする同盟が結ばれた。名目は、ペルシアに受けた被害の仕返しをし、その領土を荒らすことだった。同盟の会議と金庫は、アポロンの聖地であるデロス島に置かれたため、のちにデロス同盟と呼ばれる。加盟した都市は、時期によって変わるが、150から200を超えた。誓いの儀式では、鉄の塊を海に沈め、これが浮かび上がるまで同盟を守ると誓ったという。
各都市は、船と乗組員を出すか、その代わりに金を納めることになった。どの都市がどれだけを負担するかを決めたのは、公正な人として知られたアテナイのアリステイデスで、年に460タラントンと定められた。金庫を管理する役人は、アテナイ人が務めた。

はじめのうち、同盟はよく働いた。アテナイの将軍キモンは、エーゲ海の北のペルシアの拠点を落とし、紀元前460年代には、小アジア南岸のエウリュメドン川の河口でペルシアの陸海の軍を打ち破った。エーゲ海からペルシアの艦隊の姿は消えた。
だが、同盟の中身は少しずつ変わっていった。軍船を造り、乗組員を訓練し、毎年遠征に出るのは手間がかかる。多くの都市は、船を出すより金を納めるほうを選んだ。その金でアテナイが船を造り、アテナイの市民がこぎ手として給料をもらう。気がつけば、自前の艦隊を持つのはアテナイと、レスボスやキオス、サモスなどごく一部の大きな島だけになっていた。金を納める都市には、アテナイに逆らう力が残っていなかった。

同盟から抜けようとした都市は、武力で引き戻された。紀元前470年ごろにナクソス島が離脱を図ると、アテナイは島を包囲して降伏させた。歴史家トゥキュディデスは、これが定めに反して同盟の都市が隷属させられた最初の例だと書いている。続いて北エーゲの豊かな島タソスも、金鉱をめぐってアテナイと争い、2年余りの包囲の末に城壁を壊され、艦隊を奪われた。
紀元前454年、同盟の金庫はデロス島からアテナイへ移された。エジプトに送った遠征軍が大敗した直後で、ペルシアの艦隊がエーゲ海に来ることを恐れたためと説明された。この年から、アテナイは納められた金の60分の1を女神アテナに捧げ、その額を石に刻んで記録した。その碑文がいまも残り、どの都市がいくら納めたかが分かる。数年後にペルシアとの間で和約が結ばれたとも伝えられるが、その存在自体を疑う学者もいる。いずれにせよ、ペルシアとの戦いが一段落しても、金は納められ続けた。

アテナイの指導者ペリクレスは、同盟の金をアテナイの町を飾るために使った。紀元前447年から、アクロポリスの上にパルテノン神殿の完成が建てられ、黄金と象牙の巨大なアテナ像が納められた。アテナイの中にも、これを批判する者がいた。プルタルコスは、ペリクレスの政敵たちが、ギリシア全体の戦いのための金で、虚栄心の強い女が宝石で身を飾るように町を飾り立てている、と非難したと伝えている。ペリクレスは、アテナイが同盟の都市を守っている限り、金の使い道を説明する義務はない、と答えたという。
アテナイは同盟の都市に、アテナイの貨幣と度量衡を使わせ、重い裁判をアテナイの法廷で行わせ、反抗した都市の土地にアテナイの市民を入植させた。同盟は、事実上アテナイの帝国になっていた。アテナイの民主政と、そこで花開いた演劇や哲学や建築は、この帝国が集めた富に支えられていた。
アテナイの力の伸張を恐れたスパルタとその同盟国は、紀元前431年、アテナイとの戦争に踏み切る(ペロポネソス戦争)。戦いのさなかには、同盟の都市の離反と、それに対するアテナイの苛烈な報復が繰り返された。27年の戦いの末、アイゴスポタモイの海戦で艦隊を失ったアテナイは紀元前404年に降伏し、デロス同盟は解体された。ペルシアから身を守るために作られた仕組みが、守られるはずの仲間を従える仕組みに変わり、最後はその反発の中で崩れたのである。