できごと

スファクテリアの戦い

Battle of Sphacteria
BC425年
重要度 3
スファクテリアの戦いに関わる図版:Battle of sphacteria
Battle of sphacteria Wikimedia Commons Javierfv1212 ( talk ). · Public domain

概要

ピュロスの島にスパルタの重装歩兵420人が閉じ込められた。クレオンが「私なら20日で」と言い、デモステネスと軽装兵で島を取った。スパルタ人292人が降伏した。「スパルタ人は降伏しない」が崩れた。捕虜を返してもらうために、スパルタは和を求めた。

場所

スファクテリア
36.93°N 21.66°E · ギリシア

関わった人(1)

クレオン?–BC422年 · 取った

本文

BC425年の春、ペロポネソス戦争は7年目に入っていた。毎年の夏、スパルタ軍はアッティカに攻め込んで畑を荒らし、アテナイは城壁の内にこもって海から敵の沿岸を襲う。どちらも決め手を欠いたまま、戦いは消耗の繰り返しになっていた。

アテナイの将軍デモステネス(同名の弁論家とは別人)は、シケリアへ向かう艦隊に同乗していた。艦隊が嵐でペロポネソス半島の南西、メッセニアの海岸のピュロスに避難すると、彼はここに砦を築こうと言い出す。ピュロスはスパルタの領内で、近くにはスパルタに支配されたヘイロタイ(隷属民)の故郷がある。将軍たちは取り合わなかったが、足止めされて暇を持て余した兵たちが、道具も無いまま石を積み、泥を背負って運び、6日ほどで砦を形にした。艦隊は先へ進み、デモステネスは5隻とともに残った。

知らせを受けたスパルタは、アッティカから軍を引き返させた。陸と海から砦を攻めるとともに、ピュロスの湾の口をふさぐように横たわる細長い島、スファクテリアに重装歩兵420人とその従者を渡した。ところが、呼び戻されたアテナイの艦隊が湾に入ってスパルタの船を打ち破り、島の兵は本土から切り離されてしまう。

島の兵の中には、スパルタの正規の市民であるスパルタ人が多く含まれていた。市民の数が少ないスパルタにとって、これは見過ごせない損失だった。スパルタは現地で休戦を結び、ペロポネソスの軍船60隻ほどを担保に預けて、アテナイへ和平の使者を送った。しかしアテナイの民会では、扇動的な弁舌で人気を得ていたクレオンが、かつて失った土地の返還など重い条件を求めさせ、交渉は決裂した。アテナイは休戦の違反を口実に、預かった船を返さなかった。

封鎖は思ったより長引いた。島には水も食料も乏しかったが、スパルタは食料を運び込んだ者に褒美を出すと布告し、ヘイロタイには自由を約束した。彼らは嵐の夜に小舟を島の外側へ乗りつけ、あるいは蜂蜜を混ぜたけしの実やすりつぶした亜麻の実を袋に入れて、水中を引いて泳いで渡った。逆に、狭い陸地に陣取ったアテナイの兵のほうが、水と食料に苦しんだ。

アテナイの民会に不満が高まると、クレオンは将軍たちを責め、将軍が男なら島を取るのはたやすい、自分ならやってみせる、と言った。将軍のニキアスは、それならやってみよと指揮権を譲ると申し出た。クレオンはひるんだが、民衆がはやし立てたので引けなくなり、20日のうちにスパルタ兵を生け捕りにするか、島で殺すと約束した。歴史家トゥキュディデスは、この約束を狂気じみたものと書き、民衆の中の分別ある者は、クレオンが失敗して消えてくれるならそれもよいと考えた、と伝えている。

クレオンは、現地のデモステネスを相棒に選んだ。デモステネスはすでに上陸の準備を進めていた。島は森におおわれて敵の配置が見えなかったが、兵士が煮炊きの火を誤って燃え広がらせ、森が焼けて島の様子が見えるようになっていた。夜明け前、重装歩兵800人と、同じほどの弓兵、軽い盾の兵が上陸し、船の漕ぎ手まで石や矢を持って続いた。

デモステネスは、重装歩兵どうしの正面からのぶつかり合いを避けた。軽装の兵が高みから矢と石と投げ槍を浴びせ、スパルタ兵が隊列を組んで追うと、身軽に逃げてまた射る。焼けた森の灰が舞い上がり、叫び声で号令も聞こえない。スパルタ兵は島の北の端の古い砦まで退いて守ったが、メッセニア人の部隊が崖づたいに背後へ回り込んだ。指揮官は戦死し、あとを継いだ者も傷ついた。

アテナイ側が降伏を呼びかけると、残った指揮官は本土のスパルタ人に指示を求めた。返ってきたのは、恥ずべきことをしない限り、自分たちで決めよ、という答えだった。彼らは武器を捨てた。生き残った292人のうち、およそ120人がスパルタ人だった。クレオンは約束どおり、20日のうちに彼らをアテナイへ連れ帰った。

ギリシアの人々にとって、これは戦争中のどの出来事よりも意外だった、とトゥキュディデスは書く。テルモピュライの戦い以来、スパルタ人は死んでも武器を渡さないと信じられていたからだ。のちにアテナイの側の者が捕虜の一人に、死んだ者たちこそ立派な男だったのかと皮肉を言うと、捕虜は、矢が勇者を選んで当たるなら大したものだ、と答えたという。

テルモピュライの戦いに関わる図版:Léonidas aux Thermopyles - Jacques-Louis David - Musée du Louvre Peintures INV 3690 ; L 3711
テルモピュライの戦いWikimedia Commons Jacques-Louis David · Public domain

捕虜は人質になった。アテナイは、スパルタが再びアッティカに攻め込めば彼らを殺すと告げ、毎年の侵攻は止まった。ピュロスにはメッセニア人が置かれ、ヘイロタイの逃亡を誘った。スパルタは繰り返し和を求め、クレオンと敵将ブラシダスがアンフィポリスの戦いでともに死んだ翌年のBC421年、ニキアスの和約が結ばれて捕虜は帰された。1936年、アテナイのアゴラの発掘で、「アテナイ人がピュロスのラケダイモン人から」と刻まれた青銅の盾が見つかった。戦利品として神殿に掲げられていたものとされ、いまもアゴラの博物館に残っている。

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