レオニダス1世
概要
テルモピュライの隘路で寡兵を率いて戦い、退かずに戦死した。
所属
スパルタ関わったできごと(1)
テルモピュライの戦いBC480年8月 · ギリシア側 · 総指揮本文
レオニダス1世は、紀元前6世紀の後半、ギリシアのスパルタで、アギス家の王アナクサンドリダス2世の子として生まれた。生まれた年は紀元前540年頃とみられる。スパルタには二つの王家があり、二人の王が並んで立つ独特の仕組みをとっていた。レオニダスには異母兄のクレオメネスと同母兄のドリエウスがいて、王になる見込みは薄かった。そのため王子でありながら、ほかのスパルタ市民の子と同じく、7歳から親元を離れて共同生活で鍛えられる厳しい教育を受けたとされる。
兄クレオメネスが王位を継いだが、晩年に錯乱して死に、ドリエウスはすでに遠征先で戦死していた。紀元前490年頃、レオニダスが王になった。妻のゴルゴーはクレオメネスの娘で、賢い女性として逸話がいくつも残っている。同じ頃、ペルシアの大軍がアテナイを攻め、マラトンで敗れて退いていた(マラトンの戦い)。

10年後の紀元前480年、ペルシア王クセルクセス1世が、自ら陸と海の大軍を率いてギリシアに攻め込んだ(物語「ペルシア戦争」)。ヘロドトスは陸軍を170万と書いているが、これは大げさで、現代の研究者は数十万から10万前後と見積もっている。ギリシアの諸都市は、ギリシア中部の北の入り口にあたるテルモピュライの隘路で陸軍を食い止め、近くの海で艦隊が戦う作戦を立てた。テルモピュライは、山が海に迫り、道幅が狭まる場所だった。
だがスパルタは、ちょうど神を祭る大事な祭りの時期にあたり、本隊を出せなかった。レオニダスは先発の部隊として、300人の精鋭を連れて北へ向かった。ヘロドトスによれば、その300人は、すでに息子を持つ者から選ばれた。戦死しても家が絶えないようにするためだったと考えられている。ほかの都市の兵を合わせても、ギリシアの陸軍は7000人ほどだった。出陣の前、デルフォイの神託は、スパルタが滅ぼされるか、さもなければヘラクレスの血を引く王が死ぬだろう、と告げていたという。
テルモピュライの戦いは3日続いた(テルモピュライの戦い)。狭い道では、ペルシア軍は数の多さを生かせなかった。重い盾と長い槍で隊列を組むギリシアの重装歩兵は、押し寄せる敵を次々に討ち、クセルクセスの親衛隊である「不死隊」さえ押し返した。ペルシア軍の矢があまりに多くて太陽が隠れるほどだと聞かされたスパルタ兵が、それなら日陰で戦えてよい、と答えたという話をヘロドトスは伝えている。ただし、それを言ったのはレオニダスではなく、ディエネケスという兵士である。武器を渡せと迫られたレオニダスが、来て取れ、と答えたという有名な言葉は、ずっと後のプルタルコスの書物に出てくるもので、確かな記録ではない。

2日目の夜、土地の男エフィアルテスが褒美を求めて、ペルシア軍に山を越える間道を教えた。間道を守っていた兵は逃げ、ギリシア軍は背後から包囲されることになった。知らせを受けたレオニダスは、軍議の末、同盟軍の大半を退かせた。自分とスパルタ兵は残った。退却を拒んだテスピアイの兵700人と、ヘロドトスが人質同然に引き止められたと書くテーバイの兵400人も残った。レオニダスが残った理由は、神託を信じて自ら犠牲になったからとも、味方の退却を助けるためだったとも、スパルタの法が退却を許さなかったからともいわれる。
3日目、残った兵たちは隘路から打って出た。レオニダスは戦いのさなかに倒れ、その遺体をめぐって激しい奪い合いが繰り返されたという。最後に残った兵たちは小高い丘に集まり、槍が折れると剣で、剣が無くなると素手と歯で戦い、矢を浴びて全滅した。クセルクセスは、レオニダスの首を切り落とさせて杭にさらしたとヘロドトスは書く。
テルモピュライは敗北だった。だが、その数日後、ギリシアの艦隊はアテナイの近くでペルシア艦隊を破り(サラミスの海戦)、翌年には陸でもプラタイアの戦いでペルシア軍を破った。戦いの後、テルモピュライには詩人シモニデスの作とされる碑銘が立てられた。旅人よ、行ってスパルタの人々に伝えよ、我らは命に従ってここに眠ると。のちの旅行記によれば、レオニダスの遺骨は40年後にスパルタへ戻され、墓が築かれて、毎年記念の競技が開かれたという。

レオニダスの物語の多くは、戦いから50年ほど後に書かれたヘロドトスの『歴史』に頼っている(ヘロドトス『歴史』)。わずかな兵で大軍に立ち向かい、退かずに死んだ王の姿は、その後2500年にわたって、自由のために死ぬ者の手本として語り継がれてきた。負けた戦いの指揮官が、これほど長く記憶されている例は少ない。