できごと

イオニア植民

Ionian migration
BC1000年頃
年に諸説あり重要度 3
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概要

ミケーネが崩れたあと、アテナイを経由してギリシア人が小アジアの西岸に渡った。ミレトス、エフェソス、スミルナ、12の都市。ホメロス、タレス、ヘロドトスはここから出た。ギリシアの哲学と歴史は、本土でなく、この植民市で始まる。

場所

ミレトス
37.53°N 27.28°E · トルコ

本文

紀元前1200年ごろ、東地中海の青銅器時代の世界は崩れた(海の民の侵入と青銅器時代の終わり)。ギリシア本土では、ミュケナイ(ミケーネ)やピュロスの宮殿が焼け落ち、宮殿の役人が使っていた線文字Bも消えた。その後の数百年、ギリシアには文字の記録が無く、人口も減って、のちに「暗黒時代」と呼ばれる時代が続く。この混乱の中で、ギリシア人の一部はエーゲ海を東へ渡り、小アジア(いまのトルコ)の西の海岸と、沖の島々に住み着いた。のちにイオニアと呼ばれる地方である。

ギリシア人自身は、この移住を次のように語り伝えた。ドーリア人がペロポネソス半島に攻め込んできたとき(ドーリア人の移動)、追われた人々はアテナイに逃れた。アテナイは落ちなかった。最後の王コドロスは、王が敵に殺されればアテナイが勝つという神託を知り、木こりに身をやつして敵の陣に入り、わざと争いを起こして殺された。その後、アテナイには王が立たず、コドロスの子ネレウスらが人々を率いて海を渡り、ミレトスをはじめとする町を建てた、という。イオニア人はみなアテナイから出た、というのが、のちにアテナイの人々が好んで強調した話だった。

ギリシア内での民族移動を示す仮説図
ギリシア内での民族移動を示す仮説図Wikimedia Commons H. G. Wells · Public domain

だがヘロドトス(ヘロドトス)は、この話に皮肉を交えている。イオニア人だと誇る人々は、実はさまざまな土地の人々の混じり合いで、純粋なイオニア人などいない、と彼は書く。アテナイから出た人々は女を連れて行かず、土地のカリア人の女たちを、その父や夫を殺して妻にした。そのため女たちは、夫と食事を共にせず、夫の名を呼ばないと誓い、その習わしを娘たちに伝えた、とも記している。

考古学の調査は、この伝承がすべてを語っているわけではないことを示している。ミレトスには、すでに青銅器時代にクレタやミュケナイの人々の集落があった。紀元前11世紀から10世紀にかけて、ギリシア本土と同じ様式の土器が小アジアの西岸の各地に現れ、ギリシア人の移住が進んだことはうかがえるが、それが伝承のように一度の大きな移住だったのか、長い年月をかけた少しずつの移り住みだったのかは、議論が続いている。年代も、伝承の年代と考古学の示す年代とがずれる。

ミレトス出土のテラコッタ製水差しの破片
ミレトス出土のテラコッタ製水差しの破片Wikimedia Commons Altenburg Painter · CC0

やがて小アジアの西岸には、北から順に、ギリシア語の方言の違う三つの地方が並ぶことになった。北のアイオリスには、テッサリアやボイオティアから来たとされる人々が、レスボス島や対岸の町々に住んだ。中ほどのイオニアには12の町があった。ミレトス、ミュウス、プリエネ、エフェソス、コロポン、レベドス、テオス、クラゾメナイ、ポカイア、エリュトライ、そしてサモスとキオスの島である。南のドーリス地方には、ロドスやコスの島、ハリカルナッソスなどがあった。イオニアの12の町は、ミュカレ山のふもとのパニオニオンという聖域に集まって、海の神ポセイドンを祭った。

イオニアの町々は、豊かになった。背後には内陸のリュディア王国があり、のちにはペルシアの大帝国が広がって、その先にはメソポタミアやエジプトの古い文明があった。紀元前7世紀にリュディアで始まった硬貨(リュディアの鋳造貨幣)も、イオニアの町々ですぐに使われた。商人たちは東の文明の知識と品物を手に入れ、船で地中海と黒海に運んだ。ミレトスはとりわけ盛んに植民の町を送り出し、黒海の沿岸のシノペやオルビアなど、数十の町を建てたと伝えられる。エジプトのナイル河口のナウクラティスの交易の町でも、ミレトスの人々が大きな役割を果たした。

ミレトス出土のテラコッタ製水差しの破片
ミレトス出土のテラコッタ製水差しの破片Wikimedia Commons Altenburg Painter · CC0

このイオニアから、ギリシアの文化の新しいものが次々に生まれた。ホメロス(ホメロス)の叙事詩の言葉は、イオニア方言を土台にアイオリス方言が混じったもので、ホメロスの生まれた土地を争った町の多くはこのあたりにある。紀元前6世紀のミレトスでは、タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスが、神話によらずに、万物のもとになるものは何かを問うた。ギリシアの哲学はここから始まる。エフェソスのヘラクレイトスは万物の流転を説き、サモス出身のピュタゴラスは南イタリアに渡って数の思想を広めた。ミレトスのヘカタイオスは各地の地理と系譜を書き、その流れを受けたハリカルナッソス出身のヘロドトスは、『歴史』を書いて「歴史の父」と呼ばれることになる。古い王家や伝統に縛られない新しい町で、異なる文明に接していたことが、新しい考え方を育てたとも言われる。

だが東の大国の隣にあることは、危うさでもあった。イオニアの町々は、まずリュディアの王に従い、紀元前546年ごろ、ペルシアのキュロス2世(キュロス2世)がリュディアを倒すと、ペルシアの支配下に入った。紀元前499年、ミレトスを中心にイオニアの町々はペルシアに背いた(イオニアの反乱)。アテナイなどが援軍を送ったが、反乱は鎮められ、紀元前494年、ミレトスは攻め落とされて、住民は殺されたり遠くへ移されたりした。アテナイの劇作家フリュニコスがこの事件を劇にして上演すると、観客は涙にくれ、作者は同胞の不幸を思い出させたとして罰金を科されたと、ヘロドトスは伝えている。反乱を助けたアテナイへの報復が、ペルシア戦争(物語「ペルシア戦争」)の発端の一つになった。

イオニアの名は、東の民族の言葉に長く残った。旧約聖書でノアの孫の一人とされるヤワンは、ギリシア人を指す名と考えられている。古代インドの言葉ではギリシア人をヤヴァナと呼び、ペルシア語、アラビア語、トルコ語では、ギリシアはいまもユーナーンと呼ばれる。東の人々が最初に出会ったギリシア人は、海の向こうの本土ではなく、小アジアの岸のイオニアの人々だったのである。

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