できごと

ミュカレの戦い

Battle of Mycale
BC479年8月
重要度 3
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC479年8月の版図を描いています(21勢力)。

概要

プラタイアと同じ日、と伝える。ギリシア艦隊がサモスの対岸に上陸し、ペルシアの残った艦隊を陸で破って船を焼いた。イオニアの都市が再び反乱した。ペルシア戦争の終わり。翌年、デロス同盟。攻める側と守る側が入れ替わった。

場所

ミュカレ
37.70°N 27.20°E · トルコ

本文

BC480年の秋、サラミスの海戦で艦隊を破られたペルシア王クセルクセス1世は、アジアへ引き返した。だが戦争は終わっていなかった。将軍マルドニオスが大軍とともにギリシアに残り、生き残ったペルシアの艦隊は、エーゲ海の東のサモス島に集まって、イオニアの諸都市が再び背くのを見張っていた。小アジアの海岸に並ぶイオニアの都市は、かつてギリシア本土から移り住んだ人々の町で(イオニア植民)、二十年前にはペルシアに背いて敗れている(イオニアの反乱)。

BC479年の春、ギリシアの艦隊百十隻はアイギナ島に集まった。率いたのはスパルタ王レオテュキデスで、アテナイの船を率いたのは、のちのペリクレスの父クサンティッポスである。艦隊はデロス島まで進んだが、その先へは出ようとしなかった。ペルシアの海に深入りすることを、スパルタは恐れていた。

ギリシアの重装歩兵(右)とペルシアの戦士(左)の戦いを描いた紀元前5世紀の杯
ギリシアの重装歩兵(右)とペルシアの戦士(左)の戦いを描いた紀元前5世紀の杯Wikimedia Commons Unknown · CC0

そこへ、サモスから三人の使者がひそかにやって来た。イオニアの人々は、ギリシアの船が現れさえすれば、ペルシアに背いて立ち上がる。ペルシアの船は弱っていて、戦えば勝てる、と使者は説いた。ヘロドトスによれば、レオテュキデスが使者の名を尋ねると、ヘゲシストラトスと答えた。軍を導く者、という意味である。レオテュキデスは、その名を吉兆として受け取り、出撃を決めたという。

ギリシアの艦隊が近づくと、ペルシアの側は海で戦うのを避けた。腕の良いフェニキアの船団をすでに帰していたからである。艦隊はサモスを出て、対岸の小アジアに突き出たミュカレの岬へ移った。そこには、イオニアを抑えるためにペルシアの陸の軍が置かれていた。ペルシア人は船を浜に引き上げ、石と木で柵を巡らせて陣を固めた。陸の上なら、兵の数で勝てると考えたのである。

クサンティッポスの名が記された陶片(オストラコン、紀元前484年)
クサンティッポスの名が記された陶片(オストラコン、紀元前484年)Wikimedia Commons Giovanni Dall'Orto . · Public domain

ギリシアの艦隊は追ってきて、岸に沿って船を進め、ペルシアの陣にいるイオニア人に向けて、自由を思い出せ、と大声で呼びかけた。ペルシアの将たちはイオニア人を疑い、サモス人からは武器を取り上げ、ミレトス人は山の道の見張りに遠ざけた。

ギリシア兵は上陸した。ヘロドトスは、このとき不思議なことが起きたと記す。ギリシアの本土のボイオティアで、ギリシア軍がマルドニオスの軍を破ったという噂が、どこからともなく兵の間に広がった。浜には伝令の杖が流れ着いていたという。二つの戦いは同じ日に起きた、とヘロドトスは書く(プラタイアの戦い)。噂が本当に流れたのか、後から作られた話なのかは分からない。ただ、どちらの戦いもデメテル女神の聖域のそばで戦われた、という偶然を、ヘロドトスはわざわざ書き留めている。

プラタイアの戦いに関わる図版:Scene of the Battle of Plataea
プラタイアの戦いWikimedia Commons John Steeple Davis · Public domain

アテナイ、コリントス、シキュオン、トロイゼンの兵は、平らな海岸沿いに進んだ。スパルタの兵は、丘と谷を回り込んで進んだため遅れた。手柄を先に立てようと、アテナイの兵たちは柵に突進し、これを破った。ペルシア人は最後まで踏みとどまって戦い、陸の軍の指揮官も倒れた。武器を取り上げられていたサモス人はギリシアの側に寝返り、ほかのイオニア人もそれにならった。山道の見張りを命じられたミレトス人は、逃げてくるペルシア兵を、わざと敵の待つ道へ導き、自分たちも襲いかかった。ギリシア兵は、浜に引き上げられたペルシアの船をすべて焼いた。

戦いのあと、ギリシア人はサモスで会議を開いた。スパルタは、イオニアの人々をペルシアの隣に置いておけば守りきれないとして、彼らをギリシア本土に移し、ペルシアに味方した都市の土地を与えよう、と提案した。アテナイはこれに強く反対した。イオニアの都市はアテナイが送り出した植民の町であり、その行く末を他人に決めさせるわけにはいかない、と。サモス、キオス、レスボスなどの島々は、ギリシアの同盟に迎えられた。

艦隊は北のヘレスポントスへ向かい、クセルクセスが架けた船の橋を壊そうとしたが、橋はすでに失われていた。スパルタの船は国に帰り、アテナイの船だけが残って、対岸のセストスの町を冬まで囲み、落とした。アテナイ人は、橋に使われていた太い綱を持ち帰って神殿に捧げた。ヘロドトス『歴史』は、ここで筆を置いている。

ヘロドトス『歴史』に関わる図版:POxy v0017 n2099 a 01 hires
ヘロドトス『歴史』Wikimedia Commons Unknown · Public domain

ペルシアはエーゲ海から退き、二度とギリシアの本土に攻め込まなかった。翌BC478年、スパルタが指導から手を引くと、アテナイを盟主とするデロス同盟の結成が作られる。ペルシアからイオニアを守るための同盟だったが、やがてアテナイは同盟の金庫を自分の町に移し、その金でパルテノン神殿の完成を建てることになる。攻める側と守る側が入れ替わった。

ペルシア戦争がどこで終わったのかについては、見方が分かれる。ヘロドトスのようにミュカレとセストスで終わったと見るか、アテナイとペルシアの間で和約が結ばれたとされるBC449年ごろまで続いたと見るか。その和約が本当に結ばれたのかどうかも、古くから議論がある。ミュカレの岬は、いまトルコのディレク半島にあたり、国立公園になっている。ペルシアの船が焼かれた浜の正確な場所は、分かっていない。

同じ時代のできごと

イオニアの反乱BC499年孔子の遍歴BC497年護民官の設置BC494年(伝承)マラトンの戦いBC490年陶片追放BC487年テルモピュライの戦いBC480年8月サラミスの海戦BC480年9月プラタイアの戦いBC479年
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