人物

クレオン

Cleon
? – BC422年
アテナイ重要度 3

概要

皮なめし業者の子。ペリクレスの死後、民会で最も声の大きい男。ミュティレネの成年男子の処刑を通し、翌日覆された。スファクテリアで約束通り勝った。アリストファネスが『騎士』で「パフラゴニア人」と描いた。アンフィポリスで逃げて死んだ。トゥキュディデスは彼を憎んで書いた。

所属

アテナイ

関わったできごと(2)

スファクテリアの戦いBC425年 · 取ったアンフィポリスの戦いBC422年 · 戦死

本文

クレオンは、ペロポネソス戦争の前半にアテナイの民会を動かした政治家である。ペリクレスの死後、民衆の支持を背に最も大きな発言力を持ち、のちに「扇動政治家(デマゴーグ)」の代名詞とされた。だが、彼について語る主な史料は、彼に追放された歴史家トゥキュディデスと、彼に訴えられた喜劇作家アリストファネスの作品である。私たちが知るクレオン像は、彼を最も憎んだ二人が描いたものだということを、まず心に留めておく必要がある。

父はクレアイネトスといい、奴隷を使って皮をなめす工房を営んでいた。クレオンはその工房を受け継いだ裕福な市民で、貧しい職人ではなかった。それでも、それまでのアテナイの指導者がペリクレスのような名門の出だったのに対し、彼は商工業で財を成した家の出だった。古い家柄でない者が、民会での弁舌だけで国を動かす時代が来たことを、彼は体現していた。

ペロポネソス戦争が始まった紀元前431年、スパルタ軍がアッティカの田園を荒らしても城壁の中にこもる、というペリクレスの戦略に、クレオンは強く反対した。翌年、城内に詰め込まれた人々にアテナイの疫病が広がると、ペリクレスは一時将軍職を解かれ、罰金を科された。クレオンはその攻撃の先頭にいたとされる。紀元前429年にペリクレスが疫病で死ぬと、クレオンは民会で最も力を持つ弁論家になった。後世のアリストテレス学派の書は、彼が演壇で大声を出し、人を罵り、衣をたくし上げて身振りを交えて演説した最初の人だったと書いている。

アテナイの疫病に関わる図版:Plague in an Ancient City LACMA AC1997.10.1 (1 of 2)
アテナイの疫病Wikimedia Commons Michiel Sweerts · Public domain

紀元前427年、アテナイの同盟国だったレスボス島のミュティレネが背いて降伏した。クレオンは民会で、ミュティレネの成年男子をすべて処刑し、女と子どもを奴隷にせよと主張し、それが決議された。命令を携えた三段櫂船がすぐに出航した。だが翌日、民衆のあいだに後悔が広がり、民会が開き直された。トゥキュディデスはこのときのクレオンの演説を、民主政は他国を支配する帝国を治めることができない、諸君は言葉を楽しむ観客になっている、という厳しい言葉で再現している。対するディオドトスは、正義ではなく利益の問題として、全員を殺せば背いた国はかえって最後まで抵抗するようになると論じた。僅差で処刑は取り消され、二隻目の船が昼夜こぎ続けて、先の船が着いた直後に追いつき、虐殺は寸前で止まった。ただし反乱の首謀者とされた千人余りは、クレオンの提案で処刑された。

クレオンの名を最も高めたのは、紀元前425年のピュロスの出来事である。アテナイの将軍デモステネスがペロポネソス半島の西岸ピュロスに砦を築き、近くのスファクテリア島にスパルタの重装歩兵400人余りを閉じ込めた。包囲が長引くと、民会でクレオンは将軍たちの手ぬるさを責め、自分が将軍なら簡単に片づけられると言った。すると将軍のニキアスが、それなら君がやってみよと指揮権を譲った。退くに退けなくなったクレオンは、20日以内にスパルタ兵を生け捕りにして連れ帰るか、皆殺しにすると約束した。民衆は笑ったという。だがクレオンはデモステネスと組んで島に兵を上げ、約束の期限内に、120人のスパルタ市民を含む292人を捕虜にしてアテナイに連れ帰った(スファクテリアの戦い)。スパルタの兵が戦場で降伏するとは誰も思っていなかったので、ギリシア中が驚いた。トゥキュディデスは、狂ったような約束だったが果たされた、と苦々しげに書いている。

スファクテリアの戦いに関わる図版:Battle of sphacteria
スファクテリアの戦いWikimedia Commons Javierfv1212 ( talk ). · Public domain

この勝利でクレオンの人気は頂点に達した。彼は市の迎賓館で食事を受ける栄誉を与えられ、裁判で陪審を務める市民の日当を引き上げた。同じころ、同盟国から取り立てる貢納金の額を大幅に引き上げる決議が通っており、これも彼の主導とみられている。

喜劇作家アリストファネスは、クレオンの最も手ごわい敵だった。紀元前426年、アリストファネスは喜劇『バビロニア人』でアテナイの政治を風刺し、クレオンに訴えられた。その2年後の喜劇『騎士』では、クレオンをあからさまにモデルにした、主人の老人「民衆」をおだてて操る奴隷「パフラゴニア人」を登場させ、彼がもっと下品なソーセージ売りに言い負かされる筋にした。言い伝えでは、クレオンを恐れて誰もその面を作ろうとしなかったので、アリストファネスが素顔でこの役を演じたという。『騎士』は一等賞を取ったが、それでクレオンの人気が衰えることはなかった。

紀元前424年、スパルタの将軍ブラシダスが北方トラキアの要地アンフィポリスを奪った。その地方の艦隊を指揮していた将軍が歴史家トゥキュディデスで、救援が間に合わなかった責任を問われて追放された。追放を推し進めたのはクレオンだったと後の伝記は伝える。トゥキュディデスはそれから20年、国外でこの戦争の歴史を書き続けることになる。

紀元前422年、クレオンは自ら将軍として兵を率いてトラキアへ向かい、町トロネを取り戻した。だがアンフィポリスの城外で、陣を整えようとしていたところをブラシダスに急襲され、アテナイ軍は崩れた。トゥキュディデスによれば、クレオンははじめから踏みとどまるつもりがなく、真っ先に逃げ出したところを敵の軽装兵に討たれた(アンフィポリスの戦い)。勝ったブラシダスも傷を負って死んだ。両国で最も戦争を推し進めていた二人が同時に消えたことで、翌年、ニキアスの和約が結ばれた。

トゥキュディデスはクレオンを、市民のうちで最も乱暴で、しかも当時民衆に最も信頼されていた男と評し、戦争が終われば自分の悪事が明るみに出ることを恐れて平和に反対したとまで書いた。この評価はほぼそのまま後世に受け継がれた。一方、19世紀以来の研究者の中には、彼を戦争の遂行に現実的な判断を示した有能な指導者として見直そうとする人もいる。ピュロスでの彼は正しく、アンフィポリスでの彼は無残だった。そしてどちらの姿も、彼を憎んだ人の筆でしか伝わっていない。

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