人物

ダレイオス1世

Darius I
BC550年 – BC486年(享年64・推定)
アケメネス朝ペルシア重要度 5

概要

帝国を州に分けて統治の形を整え、王の道を敷いた。ギリシア遠征はマラトンで挫折する。

所属

アケメネス朝ペルシア

関わったできごと(2)

ダレイオスのスキタイ遠征BC513年 · 王マラトンの戦いBC490年 · ペルシア側 · 派兵

本文

紀元前550年頃に生まれた。父ヒュスタスペスはアケメネス家の傍流の出で、帝国の東の州の総督を務めていた。この頃、キュロス2世がメディアを倒し、ペルシア人の帝国を築きつつあった。

ダレイオス1世の肖像
ダレイオス1世の肖像Wikimedia Commons Rumlu · Public domain

若い頃は、キュロスの子カンビュセス2世に仕え、カンビュセスのエジプト征服にも従軍したと伝えられる。紀元前522年、カンビュセスはエジプトからの帰途に死んだ。その頃、都ではカンビュセスの弟バルディヤが王位に就いていた。

ダレイオスの説明はこうである。本物のバルディヤはすでにカンビュセスにひそかに殺されており、王位にいるのはガウマタというマゴス(神官)がなりすました偽者だった。ダレイオスは6人のペルシア貴族と語らって宮殿に押し入り、偽者を討って王になった、と。

ペルセポリスのダレイオス1世の記銘板
ペルセポリスのダレイオス1世の記銘板Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

この話は、ダレイオス自身が刻ませた碑文と、のちのギリシアの歴史家ヘロドトスが伝えるものである。ヘロドトスは、7人のうち誰が王になるかを、夜明けに最初にいなないた馬の主に決めることにし、ダレイオスの馬丁が策を使って主人の馬をいななかせた、という話まで書いている。こちらは伝説の類である。現代の研究者の中には、王位にいたのは本物のバルディヤで、ダレイオスこそが王位を奪った者だったのではないかと疑う人が多い。真相は分からない。

即位の直後、帝国の各地で反乱が起きた。ダレイオスは1年ほどの間に19回の戦いを戦い、9人の王を名乗る者を捕らえたと誇っている。その次第を、ザグロス山脈の崖、ベヒストゥンの岩壁に、浮き彫りと三つの言葉の碑文で刻ませた。古代ペルシア語、エラム語、バビロニア語で書かれたこの碑文は、19世紀にイギリスの軍人ローリンソンらによって写し取られ、楔形文字の解読の鍵になった。古代ペルシア語の文字そのものが、ダレイオスの時代に作られたとする説もある。

ダレイオスに踏みつけられるガウマタ(ベヒストゥン碑文の浮彫)
ダレイオスに踏みつけられるガウマタ(ベヒストゥン碑文の浮彫)Wikimedia Commons Leen van Dorp · CC0

帝国を州に分けて統治の形を整え、王の道を敷いた。ヘロドトスによれば、帝国は20の州に分けられ、それぞれに総督(サトラップ)が置かれた。州ごとに納める貢納の額を定め、総督とは別に軍の長を置いて力を分け、「王の目」「王の耳」と呼ばれる監察の役人を送って見張らせた。重さと純度を揃えたダレイコス金貨も作らせている。

王の道は、小アジア西部のサルディスから都スーサまで、2500キロほどを結ぶ街道だった。一日の行程ごとに宿駅を置き、馬を乗り継ぐ使者が手紙を運んだ。普通の旅人なら3か月かかる道のりを、使者は1週間ほどで駆け抜けたとされる。ヘロドトスは、雪も雨も暑さも夜の闇も、この使者たちが定められた道のりを走り終えるのを妨げない、と書いた。

ベヒストゥン碑文に描かれたガウマタの肖像
ベヒストゥン碑文に描かれたガウマタの肖像Wikimedia Commons Leen van Dorp · CC0

エジプトでは、ナイル川と紅海を結ぶ運河を完成させ、それを記念する碑を建てた。インダス川の流域に兵を送り、そこを州に加え、船で川を下らせて海路を探らせている。

都のスーサに宮殿を建て、さらにペルシアの故地に、のちにギリシア人がペルセポリスと呼ぶ壮大な宮殿の町を造りはじめた。スーサの宮殿の建設を記した碑文には、杉はレバノンから、金はリュディアとバクトリアから、象牙はエチオピアとインドから運ばれ、石工はイオニア人、煉瓦職人はバビロニア人だった、と書かれている。ペルセポリスの階段の浮き彫りには、各地の民族が衣装もさまざまに貢ぎ物を携えて並ぶ。征服した民の宗教や慣習は、基本的にそのまま認められた。

ダレイオスの印章の図
ダレイオスの印章の図Wikimedia Commons Ward, William Hayes, 1835-1916 · Public domain

碑文の中で、ダレイオスはゾロアスターの教えにつながる神アフラ・マズダの恵みによって王になったと繰り返す。自分は正しいことの友であり、悪しきことの友ではない、強い者が弱い者を虐げることを望まない、という言葉も墓の碑文に残っている。

ヘロドトスによれば、ペルシア人はキュロスを父、カンビュセスを主人と呼び、ダレイオスを商人と呼んだ。何から何まで税を定め、勘定高かったからだという。征服者キュロスの後に、帝国を長く続く仕組みに作り変えたのがダレイオスだった。

ウジェーヌ・フランダン画『ダレイオス大王』(1840年)
ウジェーヌ・フランダン画『ダレイオス大王』(1840年)Wikimedia Commons Eugène Flandin · Public domain

外への遠征は、すべてがうまくいったわけではない。紀元前513年頃、ボスポラス海峡に船を並べた橋を架けて渡り、黒海の北の遊牧民を討つダレイオスのスキタイ遠征に出た。だがスキタイ人は戦いを避けて草原の奥へ退き、ペルシア軍は追いかけるだけで決着をつけられないまま引き返した。

紀元前499年、小アジアのギリシア人の諸都市が背いた(イオニアの反乱)。アテナイとエレトリアが援軍を送り、反乱軍は州都サルディスを焼いた。ダレイオスはこれを怒り、食事のたびに、王よアテナイ人を忘れたもうな、と三度言わせたとヘロドトスは書く。反乱は6年がかりで鎮められた。

ギリシア遠征はマラトンで挫折する。紀元前492年の最初の遠征は、艦隊がアトス岬の沖で嵐に遭って失敗した。紀元前490年、海を渡った遠征軍は、アテナイの北東のマラトンの戦いで、数で劣るアテナイの重装歩兵に敗れた。

マラトンの戦いに関わる図版:Scene of the Battle of Marathon
マラトンの戦いWikimedia Commons John Steeple Davis · Public domain

再び大軍を起こそうとしていたさなか、エジプトで反乱が起きた。紀元前486年、その準備のうちに死んだ。60代半ばだった。墓は、ペルセポリスに近いナクシェ・ロスタムの断崖に彫り込まれた。後を継いだ息子のクセルクセス1世は、10年後に父の果たせなかったギリシア遠征に乗り出すが、サラミスで敗れる。

ギリシアの側から見れば、ダレイオスは自由を脅かした東方の専制君主だった。だが、さまざまな民族と言葉を一つの帝国の中に収め、道と貨幣と文書で結んだ仕組みは、のちのヘレニズムの王国やローマ、イスラームの帝国にも受け継がれていく。アケメネス朝ペルシアの最盛期は、この人の時代にある。

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