テミストクレス
概要
銀山の収益を軍船に注ぎ込み、サラミスでペルシア艦隊を破った。のちに追放される。
所属
アテナイ関わったできごと(1)
サラミスの海戦BC480年9月 · ギリシア側 · 総指揮本文
テミストクレスは紀元前524年ごろ、アテナイに生まれた。父ネオクレスはアテナイ市民だったが、名門ではなく、母はトラキアかカリアの出身の外国人だったと、プルタルコスの伝記は伝えている。生まれた頃のアテナイは僭主ペイシストラトスの一族の支配下にあり、少年時代にクレイステネスの改革が行われて、市民が民会で国の行く末を決める仕組みが動き始めた。家柄に頼れないテミストクレスにとって、民会で市民を説き伏せる力が、のし上がるための武器になった。少年の頃から遊びに加わらず、弁論の練習ばかりしていたという話が伝わっている。
紀元前493年ごろ、アテナイの最高の役職であるアルコンに就いたとされ、遠浅の浜に船を引き上げるだけだった港を、三つの湾を持つ岩がちな半島ペイライエウスに移す工事を始めた。海の上にアテナイの将来がある、という考えを、この頃から持っていたことになる。紀元前490年、ペルシアの軍がマラトンに上陸したときには、将軍の一人として戦ったとされる(マラトンの戦い)。陸の戦いの勝利に多くの市民が安心するなかで、テミストクレスはペルシアがもっと大きな力で戻ってくると見ていた。

紀元前483年ごろ、アテナイの南にあるラウレイオンの銀山で、豊かな新しい鉱脈が見つかった。その収益を市民一人ひとりに分けようという声が上がると、テミストクレスはそれを軍船の建造に充てるよう民会に説いた。理由に挙げたのは、遠いペルシアではなく、隣の島国アイギナとの争いだった。海の向こうの大国より、目の前で海上の利益を争っている相手のほうが、市民には切実だったからである。造られた三段櫂船の数は、ヘロドトスは200隻、アリストテレスの名で伝わる書物は100隻と伝えている。この頃、船の建造に反対したとされる慎重派の政治家アリステイデスが陶片追放で国を追われ、テミストクレスの方針が通った。
紀元前480年、ペルシア王クセルクセス1世が自ら大軍を率いてギリシアに攻め込んだ。アテナイがデルフォイの神託に伺いを立てると、木の壁がアテナイを救う、という答えが返ってきた。多くの人は、アクロポリスの古い木の柵のことだと考えたが、テミストクレスは、木の壁とは船のことだと説いた。市民と家族を近くの島や対岸の町に逃がし、アテナイの町を空にして、全力を海で戦うことに振り向けた。テルモピュライの戦いでスパルタ王レオニダスが倒れ、ペルシア軍はアテナイに入って、アクロポリスの神殿を焼いた。

ギリシア側の艦隊はサラミス島と本土の間の狭い海峡に集まっていた。ペロポネソス半島の諸国は、地峡まで退いてそこで守るべきだと主張し、艦隊は散り散りになりかけていた。テミストクレスは、自分の子の家庭教師だった奴隷シキンノスを、ひそかにペルシア王のもとへ送った。ギリシア艦隊は逃げようとしている、今なら一網打尽にできる、と伝えさせたのである。ペルシア艦隊は夜のうちに海峡の出口を塞ぎ、ギリシア側は逃げ場を失って戦うほかなくなった。翌朝、狭い海峡に押し込まれたペルシアの大艦隊は自由に動けず、小回りの利くギリシアの船に次々と体当たりされて敗れた(サラミスの海戦)。この戦いの様子は、劇作家アイスキュロスが8年後の悲劇『ペルシア人』で描いている。彼自身がこの海戦に加わっていたとされる。
ペルシア王は本国へ引き返し、翌年のプラタイアの戦いで陸の戦いも決着した。テミストクレスは戦後、スパルタの反対を承知でアテナイの城壁を急いで再建させた。自分はスパルタへ使節として行き、仲間がまだ着かないと言って交渉を引き延ばし、その間にアテナイでは老若男女総出で城壁を積み上げた。完成したと聞いてから、事実を告げたという。トゥキュディデスが伝える話である。

しかし、手柄が大きすぎる人物は、民主政のアテナイでは疎まれた。テミストクレスは自分の功を事あるごとに口にし、賄賂を取るという評判もあった。紀元前471年ごろ、陶片追放によって国を追われ、ペロポネソス半島のアルゴスに移った。アテナイのアクロポリスの北の斜面からは、テミストクレスの名を刻んだ陶片が190枚まとまって見つかっており、十数人ほどの筆跡で書かれていることから、追放の投票のためにあらかじめ用意されたものと考えられている。
追放の後、スパルタの将軍パウサニアスがペルシアと通じていた事件が明るみに出て、テミストクレスもそれに関わったとして罪に問われた。追手を逃れてケルキュラ、エペイロスを転々とし、ついに小アジアへ渡った。たどり着いた先は、かつて自分が破ったクセルクセスの息子、ペルシア王アルタクセルクセス1世の宮廷だった。テミストクレスは王に会う前に1年かけてペルシア語を学んだという。王は彼を厚く迎え、小アジアのマグネシアなど三つの町の収入を与えた。

テミストクレスは紀元前459年ごろ、マグネシアで死んだ。トゥキュディデスは病死だったとしつつ、ギリシアへの遠征を命じられて、それを果たせないと考えて毒をあおったという噂も伝えている。トゥキュディデスは、彼を、学ばずして事態の本質をつかみ、先の成り行きを誰よりも正確に見通した人物と評した。アテナイが海の大国となり、デロス同盟の結成の盟主として栄える道は、彼の艦隊から始まった。その艦隊を作った人は、祖国ではなく、敵の王のもとで生涯を終えた。