ペイシストラトス
概要
アテナイの僭主。三度政権を取り、二度追われた。農民の味方で、法は変えず、祭りを大きくした。息子の代に憎まれ、その追放のあとにクレイステネスの改革が来る。
所属
アテナイ関わったできごと(1)
ペイシストラトスの僭主政BC561年 · 僭主本文
アテナイの東部、ブラウロンに近い土地の貴族の家に生まれた。ソロンの母方の親戚だったとも言われる。若い頃、隣国メガラとの戦いで将軍として功を立て、メガラの港ニサイアを取って名を上げた。
彼が政治に乗り出した頃のアテナイは、ソロンの改革のあとも落ち着かなかった。ソロンの改革で借金のかたに奴隷にされることはなくなったが、貴族どうしの争いは続き、市民は地域ごとに三つの党派に分かれていた。海岸の人びとの党、平野の大土地所有者の党、そして山地の貧しい農民や牧人の党である。ペイシストラトスはこの三つ目の党の頭になった。
最初に権力を取った方法を、ヘロドトスはこう伝える。BC561年頃、彼は自分と騾馬に傷をつけ、政敵に襲われたと言って広場に駆け込み、身を守るための護衛を民会に求めた。認められたのは棍棒を持つ数十人の護衛で、彼はその護衛を率いてアクロポリスを占拠した。これがペイシストラトスの僭主政の始まりだった。だが平野の党と海岸の党が手を組むと、ほどなく追われた。
二度目の復帰はさらに芝居がかっていた。海岸の党の頭メガクレスと手を結び、その娘を妻に迎える約束をすると、背の高い美しい女を女神アテナの姿に装わせて戦車に乗せ、「女神がペイシストラトスを自らのアクロポリスへ連れ戻す」と触れ回らせて町に入った、という。ヘロドトス自身、アテナイ人がこんな手に乗ったのは信じがたい、と書いている。この同盟も、彼がメガクレスの娘との間に子をもうけようとしなかったことから壊れ、再び亡命した。

亡命先のエウボイア島のエレトリアで、彼はおよそ10年をかけて準備した。北方のパンガイオン山の銀や金の鉱山から資金を得て傭兵を雇い、テーバイなどの支援を取りつけた。BC546年、マラトンに上陸し、パレネで市民軍を破ってアテナイに戻った。三度目の僭主政はBC528年か527年に彼が死ぬまで、およそ18年続く。
僭主と言っても、彼の統治は穏やかだったと古代の著者たちは口をそろえる。ソロンの法はそのまま残し、役職の選び方も変えず、ただ自分の一族や味方がその役に就くようにした。アリストテレスの『アテナイ人の国制』によれば、殺人の罪で告発されてアレオパゴスの法廷に呼ばれたとき、彼は素直に出頭した。訴えた者のほうが恐れて訴えを取り下げたという。

彼が力を注いだのは、貧しい農民の暮らしだった。土地を持たない者や貧しい者に金を貸して畑を耕させ、収穫の十分の一を税として取った。農民が畑にいてくれれば町で騒ぎを起こさず、税も入る、という計算もあったとアリストテレスは書く。地方を巡る裁判官を置き、農民がわざわざ町へ出てこなくても裁判を受けられるようにした。貴族が地元で人びとを裁く力は、これで弱まった。
アリストテレスはこんな逸話も伝える。地方を巡っていた彼が、ヒュメットス山のふもとで、石ばかりの土地を掘り返している農夫を見かけ、何が採れるのかと尋ねさせた。農夫は相手が誰とも知らず、「苦労と痛みだけだ。そのうえ、その十分の一をペイシストラトスが取っていく」と答えた。彼はその率直さを喜び、農夫の税を免じた。

町の姿も変わった。彼と息子たちの時代に、泉の水を引く水道が造られ、ゼウス・オリュンピオスの大神殿の工事が始まった(完成はローマ皇帝ハドリアヌスの時代になる)。パンアテナイア祭を4年に一度の大祭として盛大に祝い、ディオニュシア祭を国の祭りとした。この祭りでテスピスが悲劇を上演したのが、アテナイの悲劇の始まりだと伝えられている。ホメロスの詩を祭りで決まった順に朗誦させたのも彼の時代とされ、後世には彼がホメロスの本文を初めて編んだという伝えまで生まれた。
外では、エーゲ海の北の航路を押さえ、黒海へ向かう海峡の近くに足場を築いた。ナクソスやデロスにも手を伸ばし、アテナイが海の国になる下地を作った。陶器の輸出が伸び、アテナイの黒絵式の壺が地中海の各地に運ばれたのもこの頃である。
アリストテレスは、彼の時代を「クロノスの治世(黄金時代)」と呼ぶ者が多かった、と書いた。死ぬと、権力は息子のヒッピアスとヒッパルコスに引き継がれた。息子たちはそうは言われなかった。BC514年にヒッパルコスが恋の恨みから二人の若者に暗殺されると、ヒッピアスは疑い深く苛酷になり、BC510年、アルクメオン家の働きかけで出兵したスパルタ軍に追われた。
その空白の中で、かつての同盟者メガクレスの子クレイステネスが市民の組み分けを作り直す(クレイステネスの改革)。逆説的だが、ペイシストラトスが貴族の地元の力を削ぎ、市民にアテナイという国への帰属を意識させたことが、民主政の下地になったとする見方は多い。一方、追われたヒッピアスはアケメネス朝ペルシアのもとへ逃れ、BC490年、ペルシア軍を案内して、父がかつて上陸したマラトンに再び立つことになる(マラトンの戦い)。