アルキロコス
概要
パロス島。貴族の父と奴隷の母。傭兵、恋、罵倒、盾を捨てた話。イアンボス(罵り詩)の創始者。婚約を破棄した相手の父と娘を詩で罵り、一家が首を吊ったと伝わる。戦死した。殺した男はデルフォイで「詩神の僕を殺した」と追い返された。
所属
ギリシア諸ポリス関わったできごと(1)
アルキロコスの詩BC650年頃 · 詩人本文
アルキロコスは紀元前7世紀の前半、エーゲ海の中ほどに浮かぶキクラデス諸島の一つ、パロス島に生まれた。島は真っ白な大理石の産地として知られ、交易と植民で栄えていた。後の伝えによれば、父テレシクレスは島の有力者で、母エニポは奴隷の身分だった。エニポという名は「非難」を意味する言葉に通じるため、本当の名かどうかを疑う研究者もいる。いずれにせよ、名門の血を引きながら、正式な跡取りにはなれない立場に生まれたことが、彼の生き方と詩の調子を決めたと考えられている。

父テレシクレスは、デルフォイの神託に伺いを立てて、北のタソス島に植民市を築く計画を進めたと伝えられる。タソスには金の鉱山があり、対岸のトラキアの本土にも金と銀を産する土地が広がっていた。アルキロコスもまた、パロスの人々とともにタソスへ渡った。だが、彼の目に映った新しい土地は、楽園とはほど遠かった。タソスは、ロバの背骨のように突き出して、荒れた森に覆われている。美しくもなく、望ましくもなく、愛らしくもない、と彼は歌った。ギリシアじゅうの不幸がタソスに集まった、という詩句も残る。
タソスの植民者たちは、金の産地をめぐって、対岸のトラキアの人々と絶えず戦った。アルキロコスは、自分を戦の神の従者であり、詩の女神ムーサの贈り物を知る者だと名のった。槍で稼ぎ、槍で食べ、槍にもたれて酒を飲む。土地も財産も約束されていない男にとって、戦いは暮らしの手段だった。トラキアの戦場で盾を捨てて逃げ、命が助かったのだからまた買えばいい、と開き直った詩は、彼の最も有名な作品である(その詩についてはアルキロコスの詩)。この詩は、後の詩人たちの手本にもなった。レスボスの詩人アルカイオスは戦いで武具を失ったことを歌い、ローマの詩人ホラティウスは、紀元前42年のフィリッピの戦いで自分も盾を置いて逃げた、と歌った。盾を捨てたと自ら告白することは、詩人の伝統の一つにさえなった。

アルキロコスは、人を嘲る詩の名手としても恐れられた。婚約を一方的に破った有力者リュカンベスとその娘たちに向けて、彼は容赦ない言葉を浴びせた。弱い者が知恵で強い者に仕返しをする、狐と鷲の寓話を詩に織り込んだのも、その一つとされる。私は一つの大きなことを知っている、私に悪をなす者に、恐ろしい悪で報いることだ、という断片も残る。
彼の言葉には、20世紀にまで生き延びたものがある。狐はたくさんのことを知っているが、ハリネズミは一つの大きなことを知っている。この謎めいた一行を手がかりに、イギリスの思想家アイザイア・バーリンは1953年、作家を、一つの原理ですべてを見通そうとするハリネズミ型と、多くの物事をそれぞれに追う狐型に分ける評論を書き、レフ・トルストイを論じた。また、心よ、心よ、と自分の心に呼びかけ、勝っても喜びすぎるな、負けても家で泣き伏すな、人間を支配している浮き沈みの律動を知れ、と諭す断片は、感情に振り回される自分自身を見つめる最も古い詩の一つとして読まれている。

アルキロコスは、パロスと隣のナクソス島との戦いの中で討ち死にしたと伝えられる。彼を殺した男が、デルフォイの神殿に参ると、巫女は、ムーサの従者を殺した者よ、神殿から出て行け、と告げたという。パロスでは、アルキロコスは英雄として祀られた。紀元前3世紀には、彼の聖域が整えられ、その生涯を刻んだ碑文が立てられた。
後の時代、アテナイのクリティアスは、アルキロコスが自分の悪口を自分で書いたことを咎めた。彼が書かなければ、誰も彼が奴隷の女の子だったことも、貧しかったことも、盾を捨てたことも、人の妻を誘惑したことも知らなかっただろう、というのである。だが、その非難こそが、アルキロコスの新しさを示している。ホメロスは自分を語らなかった。アルキロコスは、自分の恥も怒りも欲望も、自分の口で語った。古代の人々が彼をホメロスと並べて讃えたのは、英雄の物語の外に、一人の人間の声を響かせた最初の詩人だったからである。