できごと

アイゴスポタモイの海戦

Battle of Aegospotami
BC405年
重要度 5
古シベリアの狩猟採集民サハラの牧畜遊牧民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民アケメネス朝ペルシア西アフリカの穀作農民サーミヒンドゥーの諸王国ガリア諸部族カルタゴPlain-Pottery cultureメロエギリシア諸ポリスBrushed Pottery cultureイリュリア人Bell-shaped burials cultureMilograd cultureギリシア諸ポリスEastern Masurian cultureブレンミュエスサバア王国Pomeranian cultureBC405年アイゴスポタモイ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC405年の版図を描いています(21勢力)。

概要

ヘレスポントスの砂浜。アテナイの180隻が5日、同じ浜で兵を上陸させて食事をしていた。リュサンドロスは5日目に来た。170隻を浜で取った。海の戦いではなかった。翌年、アテナイが降った。壁は笛の音で壊された。27年の戦争の終わり。

場所

アイゴスポタモイ
40.35°N 26.60°E · トルコ・ダーダネルス

関わった人(1)

リュサンドロス?–BC395年 · 勝った

本文

紀元前405年の晩夏、ヨーロッパとアジアを分ける細い海峡ヘレスポントス(今のダーダネルス海峡)の岸辺で、アテナイの艦隊がほぼ丸ごと失われた。場所はアイゴスポタモイ、「山羊の川」という意味の小さな川の河口の砂浜である。勝ったのはスパルタの提督リュサンドロス。だがこれは、船と船がぶつかり合う海戦と呼べるものではなかった。アテナイの船の多くは、乗組員が陸に上がっているあいだに、浜に並んだまま奪われたのである。27年に及んだペロポネソス戦争は、この日に事実上決着した。

アテナイは、物語「ペルシア戦争」のあとデロス同盟の結成を足場にエーゲ海に海の帝国を築き、その力は艦隊にあった。紀元前431年に始まったスパルタとの戦争でも、陸ではスパルタにかなわないアテナイは、海を支配して戦い続けた。だが紀元前415年からのシケリア遠征で大艦隊と数万の兵を失い、そのあと国力は大きく傾いた。それでもアテナイは、黒海から穀物を運ぶ航路を守りながら、しぶとく戦いを続けていた。アテナイの市民の食べる穀物の多くは、ヘレスポントスを通って運ばれてくる。この海峡は、アテナイの命綱だった。

シケリア遠征に関わる図版:Destruction of the Athenian army at Syracuse
シケリア遠征Wikimedia Commons John Steeple Davis · Public domain

アテナイを倒すには、海で勝たねばならない。そう考えたスパルタに金を出したのは、かつての敵ペルシアだった。ペルシア王の息子で、小アジアの総督を務める若い王子キュロスは、リュサンドロスと親しくなり、艦隊の漕ぎ手に払う給料を惜しみなく与えた。スパルタでは同じ人物が提督を二度務めることは許されていなかったため、紀元前405年、リュサンドロスは名目上は副官として、実際には艦隊の指揮を執った。彼はヘレスポントスに乗り込み、アジア側の町ランプサコスを攻め落とした。

アテナイは180隻の艦隊を急いで送り込んだ。艦隊はランプサコスの対岸、ヨーロッパ側のアイゴスポタモイの浜に陣取った。海峡をはさんで、両軍の距離は3キロに満たなかった。だがアイゴスポタモイには港も町もなかった。水と食べ物を手に入れるには、乗組員が浜から散らばって探しに行くか、数キロ離れたセストスの町まで出かけるほかなかった。

小キュロスとリュサンドロスの会見(フランチェスコ・アントニオ・グルーエ画、17世紀のマヨリカ陶器)
小キュロスとリュサンドロスの会見(フランチェスコ・アントニオ・グルーエ画、17世紀のマヨリカ陶器)Wikimedia Commons Francesco Grue · Public domain

アテナイ艦隊は毎朝、海に漕ぎ出し、ランプサコスの港の前に戦列を並べて、リュサンドロスに戦いを挑んだ。リュサンドロスは船に兵を乗せて構えさせながら、決して港から出なかった。日が傾くと、アテナイ艦隊は浜に引き返し、乗組員は船を降りて食べ物を探しに散っていった。リュサンドロスは毎回、足の速い船に後をつけさせ、アテナイ人たちの様子を見張らせた。こうして4日が過ぎた。

このとき近くには、アテナイの将軍だったが国を追われていたアルキビアデスが、自分の砦を構えて住んでいた。彼はアテナイ艦隊の陣の危うさを見て、馬でやって来て将軍たちに忠告した。ここは港も町もなく、兵が散らばってしまう。セストスに移れば、港があり、町があり、食べ物も手に入る、と。だが将軍たちは、今は我々が将軍であってお前ではない、と言って彼を追い返したという。

ヘレスポントス海峡を挟んでアイゴスポタモイを望む
ヘレスポントス海峡を挟んでアイゴスポタモイを望むWikimedia Commons Jona Lendering · CC0

5日目、アテナイ艦隊はいつものように挑発し、いつものように浜に戻った。乗組員が散っていったのを見届けたリュサンドロスの見張りの船は、海峡の中ほどで青銅の盾を高く掲げた。合図を受けたリュサンドロスは全艦隊を一気に漕ぎ出させた。アテナイの将軍の一人コノンは、敵が向かってくるのに気づいて、慌てて兵を呼び戻そうとしたが、船の多くは漕ぎ手が半分しかいないか、まったく乗っていなかった。スパルタの艦隊は浜に乗り上げ、空の船を次々に引いていき、陸に上がった兵が散らばったアテナイ人を捕えた。

逃れられたのは、コノンが率いたわずか数隻と、国の公用船パラロス号だけだった。コノンは逃げる途中、近くの岬に置かれていたリュサンドロスの艦隊の大きな帆を奪い去ったと伝えられる。追ってこられないようにするためだった。アテナイに帰れば責任を問われると考えた彼は、東のキプロス島の王のもとへ身を寄せた。奪われたアテナイの船はおよそ170隻にのぼった。

アテナイの城壁の前に立つリュサンドロス(19世紀の石版画)
リュサンドロスWikimedia Commons 19th century lithograph, unknown author · Public domain

捕えられたアテナイ人は、3000人とも4000人とも伝えられる。リュサンドロスは同盟国の代表を集めて、彼らの扱いを諮った。歴史家クセノフォンによれば、アテナイは戦いの前、勝ったら捕虜の右手を切り落とすと決議しており、将軍の一人フィロクレスは、拿捕した船の乗組員を崖から突き落としたこともあった。こうした罪が数え上げられ、捕えられたアテナイ人はほとんどが殺された。最初に殺されたのはフィロクレスだった。将軍の中でアデイマントスだけが助けられたのは、右手を切る決議に反対していたからだとされるが、敵に通じて艦隊を売ったのではないかという疑いも、のちのちまで付きまとった。

パラロス号は夜、アテナイの港ペイライエウスに着いた。クセノフォンは、知らせが伝わると嘆きの声が港から長い城壁を伝って市内へと広がっていき、その夜は誰一人眠らなかった、と書いている。人びとが嘆いたのは、死んだ者たちのためだけではなかった。アテナイ自身がかつて、敵に回った町々に同じような仕打ちをしてきたことを思い出し、今度は自分たちがそうされるのだと恐れたのである。

リュサンドロスは、海峡やエーゲ海の島々に残っていたアテナイ人を見つけると、すべてアテナイへ送り返させた。市内に人が増えれば、それだけ早く食べ物が尽きるからだ。艦隊を失ったアテナイには、もう海から穀物を運ぶ手段がなかった。陸と海から包囲された町は、冬のあいだに飢えに苦しんだ。

紀元前404年の春、アテナイは降伏した。交渉に当たったのはテラメネスである。スパルタの同盟国のうち、テーバイとコリントスは、アテナイを滅ぼし、住民を奴隷にせよと強く求めた。しかしスパルタは、ペルシア戦争でギリシアのために大きな働きをした町を奴隷にはしない、としてこれを退けた。条件は厳しかった。アテナイとペイライエウスを結ぶ長い城壁と港の城壁を取り壊すこと、手元に残す船は12隻までとし、ほかはすべて引き渡すこと、追放されていた者たちを呼び戻すこと、そしてスパルタと同じ者を敵とし味方とすること。

城壁の取り壊しは、笛を吹く女たちの音楽に合わせて、お祭りのように進められた。人びとはこの日がギリシアの自由の始まりになると信じた、とクセノフォンは書いている。だが勝ったスパルタは、まもなくアテナイに親スパルタの寡頭派の政権を置き(三十人政権)、恐怖の政治が始まる。ペリクレスの時代の誇り高い民主政の都市は、ここで一度息の根を止められた。

三十人政権に関わる図版:Lysander-Sparta
三十人政権Wikimedia Commons Published by Guillaume Rouille(1518?-1589) · Public domain

アテナイの海の帝国は、砂浜で、乗組員が食事に出かけているあいだに終わった。逃げ延びたコノンは10年後、ペルシアの艦隊を率いてスパルタの艦隊を打ち破り、ペルシアの金でアテナイの長い城壁を建て直した。勝者リュサンドロスは、その前年に陸の戦いで戦死している。港も補給もない浜に艦隊を並べ、毎日同じことを繰り返して敵に見透かされたアテナイ艦隊の姿は、のちの時代まで、油断と慢心が招く破滅の例として語り継がれた。

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