エパメイノンダス
概要
斜線陣でスパルタの無敵神話を破り、ギリシアの覇権を一時テーバイに移した。
所属
テーバイ関わったできごと(1)
レウクトラの戦いBC371年 · テーバイ側 · 総指揮本文
紀元前418年頃から410年頃のあいだに、ボイオティアの町テーバイで生まれた。家は古い家柄だったが貧しかったと伝えられる。若いころ、南イタリアから亡命してきたピュタゴラス派の哲学者リュシスに学び、生涯、質素な暮らしを通したとされる。結婚もしなかった。のちのローマの伝記作家ネポスは、彼の清廉さと口数の少なさを、ほとんど理想の人物として描いている。どこまで実像かは割り引いて読む必要がある。

当時のギリシアで最強の陸軍はスパルタだった。ペロポネソス戦争に勝ったあと、スパルタはギリシア各地に介入し、紀元前382年にはテーバイの城砦を不意に占拠して親スパルタの政権を置いた。3年後、亡命していた友人ペロピダスらが町に忍び込んでこれを倒し、テーバイはボイオティアの町々をまとめ直していく。エパメイノンダスはその指導者の一人として頭角を現した。
紀元前371年、ギリシア諸国の講和会議がスパルタで開かれた。エパメイノンダスはテーバイ一市ではなく、ボイオティア全体の代表として署名しようとした。スパルタ王アゲシラオスはこれを認めず、テーバイを講和から外した。直後、スパルタ軍がボイオティアへ攻め込んでくる。
その年の夏、レウクトラの戦いで両軍がぶつかった。それまでの重装歩兵の戦いは、密集隊形が正面から押し合うもので、どちらも右翼に精鋭を置くのが定石だった。エパメイノンダスは逆に、左翼を50列という異例の厚さにして、スパルタの精鋭と王がいる右翼にぶつけた。中央と右翼は後ろへ下げて、ぶつかるのを遅らせた。斜めに並んで、決めたところだけで先に勝つ。後に「斜線陣」と呼ばれる形になる。先頭にはペロピダスの率いる精鋭部隊「神聖隊」がいた。スパルタ王クレオンブロトスは戦死し、スパルタの市民兵が数百人単位で倒れた。陸で正面から敗れたことの無いスパルタの神話が、そこで崩れた。

その後、ペロポネソス半島へ攻め込み、スパルタの町の近くまで迫った。そして、スパルタの支配下にあったメッセニアを解放し、紀元前369年にメッセネの町を建てさせた。これが決定的だった。スパルタの市民が戦士として暮らせたのは、メッセニアの隷属民(ヘイロータイ)に土地を耕させていたからだ(第一次メッセニア戦争以来の支配)。その基盤を奪われ、もともと少なかったスパルタ市民の数はさらに先細りしていく。スパルタは二度と立ち直らない。
国内では順風ではなかった。軍を率いる任期を過ぎても遠征を続けたことで、帰国後に裁判にかけられている。罰を受けるなら、自分が何をしたかを罪状に書いてほしいと言い、無罪になったという話が伝わる。少年のフィリッポス2世が人質としてテーバイに暮らしていたのも、この頃のことだ。のちのマケドニア軍の戦い方に、テーバイで見たものが生きているとする見方は多い。

晩年には、陸だけでなく海でもアテナイに挑もうとして艦隊を作らせ、エーゲ海へ出ている。紀元前364年には、北のテッサリアに遠征した盟友ペロピダスが戦死した。
紀元前362年、ペロポネソスの国々が二つに割れ、アテナイとスパルタが手を組んで、テーバイの側と戦った。マンティネイアの戦いで、テーバイは勝った。だがエパメイノンダスは胸に槍を受けた。伝えられるところでは、自分の盾が無事かを尋ね、勝利を聞いてから、刺さった槍を抜かせて息を引き取ったという。後継に考えていた二人が既に戦死したと聞いて、和を結ぶよう言い残したともされる。

彼が死ぬと、テーバイの覇権も終わった。一人の将に頼った強さだったことになる。それから24年後、彼の戦い方を学んだフィリッポス2世がカイロネイアの戦いでテーバイとアテナイを破り、さらにその3年後、その子アレクサンドロスによってテーバイの町は破壊される(テーバイの破壊)。