人物

リュサンドロス

Lysander
? – BC395年
スパルタ重要度 4

概要

貧しい家。ペルシアの王子キュロスと組んで金を得た。アイゴスポタモイ。アテナイを降し、三十人を立て、諸都市に十人の寡頭を置いた。サモスでは神として祭られた。生きている人で最初。スパルタの王たちに疎まれ、ハリアルトスで死んだ。

所属

スパルタ

関わったできごと(1)

アイゴスポタモイの海戦BC405年 · 勝った

本文

リュサンドロスは、紀元前5世紀の終わりにスパルタの海軍を率い、ペロポネソス戦争に決着をつけた将軍である。生まれた年は分からない。父はアリストクリトスといい、プルタルコスによれば家はヘラクレスの血を引く名家の流れだったが、貧しかった。後世の作家には、彼を、市民の子と一緒に育てられる身分の低い少年「モタクス」の出とする者もいる。

アテナイの城壁の前に立つリュサンドロス(19世紀の石版画)
アテナイの城壁の前に立つリュサンドロス(19世紀の石版画)Wikimedia Commons 19th century lithograph, unknown author · Public domain

紀元前407年、リュサンドロスはスパルタ艦隊の司令官(ナウアルコス)に任じられ、エーゲ海の東、小アジアの戦線に赴いた。そこで彼は、ペルシア王の次男で、小アジアの総督として派遣されていた若いキュロスと出会い、深い信頼を得た。キュロスの資金で、スパルタ側の漕ぎ手に払う日当を引き上げた。より高い日当を求めて、アテナイの艦隊から漕ぎ手が逃げてくるようになった。陸の国スパルタが海で勝つための鍵は、ペルシアの金だった。

紀元前406年、ノティオンの沖で、アルキビアデスの留守を預かっていたアテナイの副官が無断で戦いを挑み、リュサンドロスはこれを破った。この敗北でアルキビアデスはアテナイで失脚した。しかしスパルタでは司令官の任期は1年で、同じ人が二度務めることは許されなかった。リュサンドロスは後任のカリクラティダスに、使い残した資金をキュロスに返してから艦隊を引き渡した。後任を困らせるためだったとプルタルコスは書いている。カリクラティダスはアルギヌサイの海戦で戦死した。

小キュロスとリュサンドロスの会見(フランチェスコ・アントニオ・グルーエ画、17世紀のマヨリカ陶器)
小キュロスとリュサンドロスの会見(フランチェスコ・アントニオ・グルーエ画、17世紀のマヨリカ陶器)Wikimedia Commons Francesco Grue · Public domain

紀元前405年、スパルタは名目上の司令官を別に立て、リュサンドロスをその副官として実際の指揮を任せた。キュロスは父王の病床に呼ばれる際、自分の領地の税の取り立てまでリュサンドロスに預けた。リュサンドロスはヘレスポントス(ダーダネルス海峡)に向かい、アテナイの穀物の通り道を押さえた。アテナイ艦隊はアイゴスポタモイの浜に船を引き上げて対峙したが、リュサンドロスは数日動かず、敵の兵が食料を求めて散ったところを急襲し、170隻ほどの船をほとんど戦わずに奪った(アイゴスポタモイの海戦)。捕らえたアテナイ人およそ3000人は処刑された。

海の道を断たれたアテナイは、包囲されて飢え、紀元前404年に降伏した。城壁は笛の音に合わせて壊された。リュサンドロスはアテナイに親スパルタの寡頭派を据えた(三十人政権)。かつてアテナイに従っていた各地の都市にも、10人の寡頭の役人を置き、スパルタの総督と守備隊を駐留させた。この支配の網は、スパルタのものというより、リュサンドロス個人の帝国に見えた。

三十人政権に関わる図版:Lysander-Sparta
三十人政権Wikimedia Commons Published by Guillaume Rouille(1518?-1589) · Public domain

サモス島の人々は彼のために祭壇を築き、女神ヘラの祭りの名をリュサンドロスの祭りに改めた。プルタルコスによれば、ギリシア人で生きながら神として祀られたのは彼が初めてだった。詩人たちは競って彼をたたえる歌を作った。

そうした権勢は、スパルタの王たちと監督官(エフォロイ)の警戒を招いた。紀元前403年、王パウサニアスはアテナイに出向いて民主派との和解を仲立ちし、三十人の政権は倒れた。リュサンドロスは影響力を削がれた。プルタルコスは、彼が王位を二つの王家に限らず、ヘラクレスの子孫の中から最も優れた者を選ぶ制度に変え、自分が王になろうと企てたと書く。デルフォイなどの神託を買収しようとして失敗したともいう。

亡命先で暗殺されるアルキビアデス(フィリップ・シェリー画、1791年)
亡命先で暗殺されるアルキビアデス(フィリップ・シェリー画、1791年)Wikimedia Commons Michaël Martin (photographer). Philippe Chéry (18th century) · Public domain

紀元前400年前後、リュサンドロスは王アギスの死後の後継争いで、アギスの弟アゲシラオスを王位に就けた。ところが、ともに小アジアへ渡ると、アゲシラオスは人々がリュサンドロスばかりを訪ねるのを嫌い、彼を王の食卓の肉の切り分け役に任じて辱めた。

紀元前395年、スパルタとテーバイなどとの戦争が始まると、リュサンドロスはボイオティアに攻め入った。パウサニアス王の軍と合流する前に、ハリアルトスの町の城壁に攻めかかり、出撃してきた敵に討たれた。遅れて着いたパウサニアスは、遺体を引き取るために休戦を結んで退き、そのことを責められて亡命した。

死後、リュサンドロスの家は貧しかったことが分かった。彼の娘たちと婚約していた男たちは、持参金が望めないと知って婚約を破り、スパルタの監督官に罰せられたという。リュサンドロスは自分のために富を蓄えなかったが、スパルタにはペルシアの金を大量に持ち込み、それが質素を誇った国を内側から変えていったと古代の作家たちは考えた。プルタルコスは『対比列伝』(プルタルコス『対比列伝』)で、彼をローマのスッラと並べている。

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