水洗便所とS字トラップ
概要
水洗の便器は1596年にジョン・ハリントンが考案していたが、広まらなかった。下水管から悪臭と害虫が逆流するからである。1775年、時計職人アレクサンダー・カミングスが、排水管をS字に曲げて水を溜める仕組みを特許にした。溜まった水が蓋になる。翌年、ジョセフ・ブラマーが弁を改良した。この単純な曲がりが、家の中に便所を置くことを可能にした。上下水道の整備と合わせて、19世紀後半、都市の家の間取りが変わった。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
本文
水で流す便器を考えた人は、18世紀よりずっと前にいた。1596年、廷臣で詩人のジョン・ハリントンは、駄洒落だらけの小冊子『アイアックスの変身』の中で、自分の設計した水洗便器を図入りで紹介した。題の「アイアックス」は、当時の俗語で便所を意味する「ジェイクス」に掛けてある。上に水槽を置き、便器の底に弁を付け、取っ手を引けば弁が開いて水が汚物を流し去る。ハリントンはエリザベス1世の名付け子で、女王のためにも一台がリッチモンドの宮殿に据えられたと伝えられる。
だが、この便器は広まらなかった。理由は単純である。弁を開けば、便器は下の汚物溜めと筒抜けになる。臭いが上がってくる。鼠や虫も上がってくる。そのうえ当時のロンドンには、汚物を流す下水道そのものが無かった。家の地下や裏庭に掘った汚水溜め(セスプール)に落とすのがふつうで、水で流せば溜めがすぐ一杯になってしまう。

18世紀までのロンドンやパリでは、溜めが満杯になると、夜に働く汲み取り人が中身をすくい出し、荷車で郊外へ運んで畑の肥料として売った。江戸でも下肥は農家が買い取ったが、そこでは長屋の大家の収入になる商売としてしっかり整っていた(江戸の下肥)。ヨーロッパの都市の問題は、溜めの汚水が地面に染み出して地下水を汚し、人々がその地下水を井戸から汲んで飲んでいたことだった。
1775年、ロンドンのボンド街で店を開いていたスコットランド出身の時計職人アレクサンダー・カミングスが、水洗便器の特許を取った。カミングスは精密な時計や、気圧の変化を自動で記録する装置を作った腕の良い職人で、王立協会の会員でもあった。彼の特許の要は、便器の下の排水管をS字に曲げたことにあった。

流した水の一部は、曲がりの底に溜まったまま残る。この水が蓋になる。下水の側から上がってくる臭いの気体は水を越えられず、虫も上がってこられない。動く部品は一つも無いので、壊れることもない。これがS字トラップである。カミングスの便器は弁の作りにまだ弱点があったが、管を曲げて水で封をするという考えは決定的だった。
1778年、錠前職人のジョセフ・ブラマーが、弁の仕組みを改良した便器の特許を取った。冬に凍りにくく、水漏れの少ないブラマー式の便器は、19世紀の前半を通じて裕福な家の標準になった。ブラマーはのちに、当時決して破れないと言われた錠前や、水の圧力で大きな力を出す水圧プレスも発明している。
曲がりの形はその後いくつも生まれた。床の下へ抜けるS字、壁へ抜けるP字。流すときに溜まり水ごとサイフォンの原理で一気に吸い出す方式も、19世紀の終わりから広まった。形は違っても、水で蓋をするという原理は同じである。洗面台や台所の流しの下、風呂場の排水口の下にも同じ曲がりがあり、落とした指輪がそこで見つかるのもこの仕組みのおかげだ。
この話によく登場するのがトマス・クラッパー(1836〜1910年)である。ロンドンの配管業者で、水槽の水を確実に、漏れなく流し切る弁の改良で特許を取り、衛生器具の店のショーウィンドウに便器を並べて売った。王室の御用も務めた。ただし、彼は水洗便所の発明者ではない。カミングスやブラマーより100年近く後の人である。英語の俗語で便所を「クラッパー」と呼ぶのは彼の名から来たと言われるが、似た語は彼より古くからあり、つながりははっきりしない。
家に水洗便所を置けても、流した先が無ければ、問題は場所を移すだけだった。ロンドンでは1815年ごろまで、汚物を雨水用の下水溝へ流すことが禁じられていた。それが認められ、水洗便所が増えると、街じゅうの汚物がテムズ川へ流れ込むようになる。そしてロンドンの人々は、そのテムズ川から飲み水を汲んでいた。1832年、1848年、1854年とコレラが繰り返し街を襲い、ジョン・スノウのコレラ地図は汚れた水が病を運ぶことを突き止めた。1858年の夏には川の悪臭が議会にまで届き、ようやくジョゼフ・バザルジェットの設計した大下水道の工事が始まる(ロンドンの下水道)。汚水は街の下流まで運ばれて流されるようになった。
きれいな水を引く上水、汚れた水を運び去る下水、そして家の中で臭いを止めるトラップ。この三つがそろって初めて、家の中に便所を置くことが衛生的になった。19世紀の後半、都市の中産階級の家から裏庭の便所が姿を消し、家の中に浴室と便所という水を使う部屋が生まれる。それらは水道管と排水管の通り道に集められた。いまの住宅で浴室と便所と台所がたいてい近くにまとまっているのは、この配管の都合による。

それから2世紀半がたっても、この仕組みは世界のすべてには届いていない。世界保健機関の設立とユニセフの推計では、2022年の時点で、安全に管理された衛生設備を使えない人が世界におよそ35億人おり、屋外で用を足している人もなお4億人を超える。時計職人が曲げた一本の管は、いまも地球の半分近くの人々にとって、まだ手に入らない設備である。