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Event / できごと

千里ニュータウン

Senri New Town
1962年9月
重要度 3
ソビエト連邦中国インドモンゴルチベットビルマ大英帝国タイ日本ベトナムラオスフィリピンカンボジア朝鮮民主主義人民共和国大韓民国1962年9月千里ニュータウン(位置は特定されていない)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っている1962年9月の版図を描いています(15勢力)。

概要

高度経済成長の時代、仕事を求めて大都市に人が押し寄せ、住まいが足りなくなった。大阪府は、大阪の北の千里の丘陵を切り開き、日本で初めての大規模なニュータウンを造った。1962年9月、最初の住民が入居した。小学校を中心にした近隣住区ごとに、団地と一戸建て、商店、公園を配置し、鉄道で大阪の都心と結んだ。1970年には隣で大阪万博が開かれた。人口は13万人に達し、多摩ニュータウンなど全国のニュータウンの手本になった。同じ世代の家族が一斉に入居したため、のちには住民の高齢化と建物の老朽化が一斉に進んだ。

場所

千里ニュータウン位置は特定されていない(誤差 ±3km)
34.81°N 135.49°E · 日本・大阪府吹田市・豊中市

本文

1950年代の後半、高度経済成長が始まると、仕事を求めて地方から大都市へ若者が大量に流れ込んだ。大阪の町は住まいが足りず、木造の小さな賃貸の住宅がひしめき、郊外では田畑がなし崩しに宅地に変わっていった。大阪府は、計画的に一つの町を丸ごと造ることを考えた。

選ばれたのは、大阪の都心から15キロほど北の、千里の丘陵だった。竹やぶと雑木林の広がる起伏の多い土地に、およそ1160ヘクタール、人口15万人の町を造る計画が1958年に立てられた。手本にされたのは、イギリスの戦後のニュータウンと、田園都市の考えだった(田園都市)。

計画の単位になったのは、小学校を一つ持つ「近隣住区」だった。一つの住区に数千戸の住まいを置き、その真ん中に小学校と公園と小さな商店街を、いくつかの住区をまとめた地区には、中学校や大きな商店街、病院を置いた。車の道と歩く人の道は分けられた。公営住宅、公団住宅、分譲の一戸建てなどが、計画に沿って建てられた。

1962年9月、最初の住区の佐竹台で、住民の入居が始まった。若い夫婦と幼い子どもたちが、新しいコンクリートの団地に次々に移り住んだ。1967年には阪急電鉄の千里線が北千里まで延び、1970年には隣の千里丘陵で開かれた日本万国博覧会(大阪万博)に合わせて、北大阪急行電鉄が開業し、道路が整えられた。人口は1975年に13万人ほどに達した。千里ニュータウンの成功は、東京の多摩ニュータウン(1971年入居開始)や、名古屋の高蔵寺ニュータウンなど、全国のニュータウンの手本になった。

だが、ニュータウンは、同じ世代の家族が一斉に入居したため、同じ時期に一斉に年をとった。子どもたちが育って町を出ていくと、人口は減り、小学校は統合され、近隣の商店街は寂れた。団地の建物は古くなり、エレベーターの無い5階建ての階段は、年をとった住民には重荷になった。「オールドタウン」とも呼ばれるようになった千里では、2000年代から団地の建て替えが進み、高層のマンションが建って、新しい世代の住民が戻り始めている。

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