概要
高度経済成長の時代、仕事を求めて大都市に人が押し寄せ、住まいが足りなくなった。大阪府は、大阪の北の千里の丘陵を切り開き、日本で初めての大規模なニュータウンを造った。1962年9月、最初の住民が入居した。小学校を中心にした近隣住区ごとに、団地と一戸建て、商店、公園を配置し、鉄道で大阪の都心と結んだ。1970年には隣で大阪万博が開かれた。人口は13万人に達し、多摩ニュータウンなど全国のニュータウンの手本になった。同じ世代の家族が一斉に入居したため、のちには住民の高齢化と建物の老朽化が一斉に進んだ。
場所
34.81°N 135.49°E · 日本・大阪府吹田市・豊中市
本文
1950年代の後半、高度経済成長が始まると、仕事を求めて地方から大都市へ若者が大量に流れ込んだ。大阪の町は住まいが足りず、木造の小さな賃貸の住宅がひしめき、郊外では田畑がなし崩しに宅地に変わっていった。大阪府は、計画的に一つの町を丸ごと造ることを考えた。
選ばれたのは、大阪の都心から15キロほど北の、千里の丘陵だった。竹やぶと雑木林の広がる起伏の多い土地に、およそ1160ヘクタール、人口15万人の町を造る計画が1958年に立てられた。手本にされたのは、イギリスの戦後のニュータウンと、田園都市の考えだった(田園都市)。
計画の単位になったのは、小学校を一つ持つ「近隣住区」だった。一つの住区に数千戸の住まいを置き、その真ん中に小学校と公園と小さな商店街を、いくつかの住区をまとめた地区には、中学校や大きな商店街、病院を置いた。車の道と歩く人の道は分けられた。公営住宅、公団住宅、分譲の一戸建てなどが、計画に沿って建てられた。
1962年9月、最初の住区の佐竹台で、住民の入居が始まった。若い夫婦と幼い子どもたちが、新しいコンクリートの団地に次々に移り住んだ。1967年には阪急電鉄の千里線が北千里まで延び、1970年には隣の千里丘陵で開かれた日本万国博覧会(大阪万博)に合わせて、北大阪急行電鉄が開業し、道路が整えられた。人口は1975年に13万人ほどに達した。千里ニュータウンの成功は、東京の多摩ニュータウン(1971年入居開始)や、名古屋の高蔵寺ニュータウンなど、全国のニュータウンの手本になった。
だが、ニュータウンは、同じ世代の家族が一斉に入居したため、同じ時期に一斉に年をとった。子どもたちが育って町を出ていくと、人口は減り、小学校は統合され、近隣の商店街は寂れた。団地の建物は古くなり、エレベーターの無い5階建ての階段は、年をとった住民には重荷になった。「オールドタウン」とも呼ばれるようになった千里では、2000年代から団地の建て替えが進み、高層のマンションが建って、新しい世代の住民が戻り始めている。