← 地図で見る
Event / できごと

オスマンのパリ改造

Haussmann's renovation of Paris
AD1853年
重要度 4
ロシア帝国大英帝国デンマークオスマン帝国ペルシアポルトガル帝国スウェーデン=ノルウェースペイン帝国オーストリア帝国エジプトスペインフランスNejdモロッコAlgiersグレートブリテン及びアイルランド連合王国プロイセン両シチリア王国バイエルンTunisサルデーニャ王国TripolitaniaハノーファーCyrenaicaAD1853年パリ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1853年の版図を描いています(24勢力)。

概要

19世紀の半ばのパリは、中世からの狭く曲がりくねった路地に人がひしめき、コレラが繰り返し流行し、革命のたびに路地にバリケードが築かれた。1853年、皇帝ナポレオン3世は、セーヌ県の知事にジョルジュ・オスマンを任じ、都の大改造を命じた。古い家並みを取り壊して、広くまっすぐな大通りを貫き、下水道と上水道を整え、公園を造り、建物の高さと正面の形をそろえた。17年にわたる工事で、パリはいまの姿になった。だが立ち退かされた貧しい人々は町の外れへ追いやられ、莫大な借金が残り、オスマンは1870年に職を解かれた。

場所

パリ
48.86°N 2.35°E · フランス

関わった人(1)

ナポレオン3世AD1808年4月20日–AD1873年1月9日 · 命じた

本文

19世紀の前半、パリの人口は急に増え、百万人を超えた。だが町の作りは中世のままだった。狭く暗い路地に、何階建てもの古い家がひしめき、日も当たらず風も通らなかった。下水はセーヌ川に流れ込み、人々はその川の水を飲んでいた。1832年と1849年のコレラの流行では、何万人もの人が死んだ。1830年の七月革命、1848年の二月革命と、革命のたびに、労働者たちは狭い路地に敷石を積んでバリケードを築き、軍隊を寄せつけなかった。

1848年の革命のあと大統領になり、1852年に皇帝となったナポレオン3世は、ロンドンで亡命生活を送ったとき、広い公園と整った町並みを見て、パリを近代の都に作り変えようと考えていた。1853年、彼はジョルジュ・オスマンをセーヌ県の知事に任じた。オスマンは、行政の手腕に優れた、強引な役人だった。

オスマンは、地図の上に定規で線を引くように、町の中に広くまっすぐな大通りを通した。通りは、主な駅や広場を結び、交通を良くし、光と風を町の中に入れた。広い大通りは、反乱のときに軍隊を素早く動かし、バリケードを築きにくくする狙いもあったといわれる。工事のために、二万戸ほどの古い家が取り壊された。通りの両側には、高さと正面の形を厳しく決められた石造りの建物が並び、一階には商店、二階には裕福な人、上の階ほど貧しい人が住んだ。

目に見えないところでも、工事は進んだ。技師ウジェーヌ・ベルグランは、遠くの川から清らかな水を引く水道と、人が歩けるほど大きな下水道の網を造った。ブローニュの森やヴァンセンヌの森、町の中の小さな広場が、市民のための公園として整えられた。オペラ座や中央市場も、この時代に建てられた。

改造は、17年にわたって続いた。だが、取り壊された古い地区に住んでいた労働者たちは、家賃の上がった中心部を追われ、町の外れの地区へ移っていった。豊かな西と貧しい東という、パリの分かれ方は、ここで強まった。工事の費用は、議会の承認を経ない借金でまかなわれ、オスマンの強引なやり方と莫大な借金への批判が高まり、1870年1月、彼は職を解かれた。その年、帝国は普仏戦争で崩れた。それでも、オスマンが作った大通りと建物の並ぶ町並みは、いまのパリの姿そのものであり、世界の多くの都市が、その改造を手本にした。

同じ時代のできごと

ザンジバルの丁子と奴隷市場AD1840年(オマーンのスルタンが遷都)1833年工場法AD1833年報時球AD1833年イギリスの奴隷制廃止法AD1833年8月28日ショパンの練習曲AD1833年天保の飢饉1833年ウォードの箱AD1833年モリオリの征服AD1835年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1853年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります
近代のできごと一覧 →人物一覧 →
歴史データベースとは? →