概要
19世紀の半ばのパリは、中世からの狭く曲がりくねった路地に人がひしめき、コレラが繰り返し流行し、革命のたびに路地にバリケードが築かれた。1853年、皇帝ナポレオン3世は、セーヌ県の知事にジョルジュ・オスマンを任じ、都の大改造を命じた。古い家並みを取り壊して、広くまっすぐな大通りを貫き、下水道と上水道を整え、公園を造り、建物の高さと正面の形をそろえた。17年にわたる工事で、パリはいまの姿になった。だが立ち退かされた貧しい人々は町の外れへ追いやられ、莫大な借金が残り、オスマンは1870年に職を解かれた。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
関わった人(1)
ナポレオン3世AD1808年4月20日–AD1873年1月9日 · 命じた本文
19世紀の前半、パリの人口は急に増え、百万人を超えた。だが町の作りは中世のままだった。狭く暗い路地に、何階建てもの古い家がひしめき、日も当たらず風も通らなかった。下水はセーヌ川に流れ込み、人々はその川の水を飲んでいた。1832年と1849年のコレラの流行では、何万人もの人が死んだ。1830年の七月革命、1848年の二月革命と、革命のたびに、労働者たちは狭い路地に敷石を積んでバリケードを築き、軍隊を寄せつけなかった。
1848年の革命のあと大統領になり、1852年に皇帝となったナポレオン3世は、ロンドンで亡命生活を送ったとき、広い公園と整った町並みを見て、パリを近代の都に作り変えようと考えていた。1853年、彼はジョルジュ・オスマンをセーヌ県の知事に任じた。オスマンは、行政の手腕に優れた、強引な役人だった。
オスマンは、地図の上に定規で線を引くように、町の中に広くまっすぐな大通りを通した。通りは、主な駅や広場を結び、交通を良くし、光と風を町の中に入れた。広い大通りは、反乱のときに軍隊を素早く動かし、バリケードを築きにくくする狙いもあったといわれる。工事のために、二万戸ほどの古い家が取り壊された。通りの両側には、高さと正面の形を厳しく決められた石造りの建物が並び、一階には商店、二階には裕福な人、上の階ほど貧しい人が住んだ。
目に見えないところでも、工事は進んだ。技師ウジェーヌ・ベルグランは、遠くの川から清らかな水を引く水道と、人が歩けるほど大きな下水道の網を造った。ブローニュの森やヴァンセンヌの森、町の中の小さな広場が、市民のための公園として整えられた。オペラ座や中央市場も、この時代に建てられた。
改造は、17年にわたって続いた。だが、取り壊された古い地区に住んでいた労働者たちは、家賃の上がった中心部を追われ、町の外れの地区へ移っていった。豊かな西と貧しい東という、パリの分かれ方は、ここで強まった。工事の費用は、議会の承認を経ない借金でまかなわれ、オスマンの強引なやり方と莫大な借金への批判が高まり、1870年1月、彼は職を解かれた。その年、帝国は普仏戦争で崩れた。それでも、オスマンが作った大通りと建物の並ぶ町並みは、いまのパリの姿そのものであり、世界の多くの都市が、その改造を手本にした。