七歩の詩
概要
皇帝になった兄が弟に「七歩のうちに詩を作れ。できねば死」。「豆を煮て豆の茎を燃やす。豆は釜の中で泣く。本は同じ根から生まれたのに、なぜこうも急に煮るのか」。『世説新語』の話で、正史にはない。曹植はそれから10年、封地を転々として41歳で死んだ。
場所
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省
関わった人(2)
曹植AD192年–AD232年 · 弟曹丕AD187年–AD226年 · 兄本文
5世紀、南朝の宋の皇族の劉義慶のもとで編まれた逸話集『世説新語』の文学篇に、こういう話がある。魏の文帝、つまり曹丕が、弟の東阿王、つまり曹植に、七歩あるくうちに詩を作れ、できなければ大法を行う、と命じた。大法とは死刑のことである。曹植は歩きながら詩を作った。
豆を煮て羹を作り、豆を漉して汁を取る。豆がらは釜の下で燃え、豆は釜の中で泣く。もとは同じ根から生まれたのに、どうしてこうも急いで煮るのか。同じ根から生えた豆と豆がらに、同じ父母から生まれた兄弟をたとえた詩である。これを聞いた文帝は、深く恥じ入る顔をしたという。

『世説新語』に載るのは六句の形だが、後の時代には「豆を煮るに豆がらを燃やす、豆は釜の中に在りて泣く」で始まる四句の形のほうが広まった。日本でも「豆を煮るに萁を燃く」は、兄弟や身内どうしが争い傷つけ合うことのたとえとして使われてきた。
この話は、陳寿の正史『三国志』(陳寿『三国志』)には無く、正史に多くの逸話を書き加えた裴松之の注にも見えない。曹植の作品集に入っているわけでもない。編まれたのは曹植の死から200年近く後で、作り話とみるのが一般的である。題の年は、曹植が罪に問われた221年のこととして伝えられる。だが、兄が弟を殺しかけたという話の根には、本当の確執があった。

曹植は曹操の息子で、同じ母の卞氏から生まれた兄弟の中では、曹丕の下の弟にあたる。幼いころから詩文に秀で、十数歳で数十万言を暗誦し、筆を執ればたちまち文章ができたと正史は記す。父の曹操は、銅雀台ができたとき息子たちに賦を作らせ、曹植の出来に驚いたという。曹操は一時、曹丕ではなく曹植を後継ぎにしようと考えた。側近の楊修や丁儀、丁廙の兄弟が曹植を推し、曹丕の側には賈詡や司馬懿、陳群、呉質らがいた。
だが曹植は、自分を律することができなかった。217年ごろ、酒に酔って、皇帝だけが通る宮城の司馬門を開けさせ、天子の道を車で走らせた。曹操は激怒し、門の番の役人を処刑した。この年、曹丕が太子に決まった。219年、荊州の樊城で一族の曹仁が関羽に囲まれると、曹操は曹植を救援の将に任じようとしたが、曹植は酔っていて命を受けられなかった。このとき曹丕が曹植を呼んで酒を飲ませたのだと、裴松之の注に引く『魏氏春秋』は伝えている。

220年、曹操が死ぬと(曹操の死)、曹丕は丁儀と丁廙を一族ごと殺し、その年のうちに漢の皇帝から位を譲られて魏の皇帝となった(曹丕の即位(漢の滅亡))。221年、曹植は、酒に酔って皇帝の使者を脅したと告発され、罪に問われて安郷侯に落とされた。七歩の詩の場面は、この時の出来事として想像されてきた。母の卞氏が、殺すことは許さないと曹丕を止めたという話も、『世説新語』に別に見える。
曹植はそれから、封地を次々に移された。自ら詩に「十一年のうちに三度も都を移された」と書いている。封地では監視の役人が付き、兄弟どうしが会うことも禁じられた。223年、兄弟がそろって都に上ったとき、同じ母の兄の曹彰が急死した。帰り道、曹植は異母弟の曹彪と一緒に行くことを許されず、その悲しみと憤りを長い詩に詠んだ。洛水の女神との出会いを描いた「洛神賦」もこのころの作である。この女神を、曹丕の妻だった甄氏への思いに重ねる読み方があるが、後の人が作った話とされる。
226年に曹丕が死に、甥の曹叡が皇帝になっても、境遇は変わらなかった。曹植は、自分を国のために試してほしいと何度も上表したが、用いられなかった。232年、陳の王に封じられたその年に、数えの41歳で死んだ。おくり名は思といい、陳思王と呼ばれる。
政治の上では敗れた曹植は、文学では父と兄を超える名を残した。父と兄弟と彼らの周りの文人たちが作った詩は建安文学と呼ばれ、中国の詩の大きな転機になった。曹植の作品は『文選』(『文選』)に数多く収められ、後の詩人たちの手本になった。南朝の詩人の謝霊運は、天下の才が一石あるとすれば曹植がそのうち八斗を持つと言ったと伝えられる。七歩の詩が作り話であっても、後世の人々がそれを曹植の作として疑わずに語り継いだのは、才に恵まれながら兄に疎まれ続けたその生涯に、この詩がよく似合ったからだろう。