孟獲
概要
南中の豪族。『三国志』本文に名はなく、裴松之の注が引く『漢晋春秋』に「七度捕えて七度放した」。「公は天の威、南人はもう背かない」。演義が蛮王にした。雲南には孟獲の廟がある。彝族は自分たちの祖と言い、諸葛亮も一緒に祭る。
関わったできごと(1)
諸葛亮の南征AD225年 · 七縦七擒本文
孟獲は、三国時代の南中の有力者である。南中とは、蜀の国の南、いまの雲南、貴州から四川の南部にかけての地域をいう。山と谷が入り組んだこの土地には、さまざまな言葉と習わしを持つ人々が暮らし、漢の時代から郡が置かれていたものの、中央の支配は十分に及んでいなかった。土地の有力な一族や諸部族の長が、それぞれの地を治めていた。

孟獲の名は、正史の『三国志』の本文には出てこない。本文が伝えるのは、劉備の入蜀で蜀を建てた劉備が223年に亡くなると、南中の豪族たちが次々に背いたことである。益州郡の雍闓は、蜀の太守を捕らえて呉に送り、呉と結んだ。越巂郡の高定、牂柯郡の朱褒も兵を挙げた。蜀の丞相諸葛亮は、まず国内を固め、呉と和を結び直してから、225年の春、自ら兵を率いて南へ向かった(諸葛亮の南征)。本文は、その秋までに南中はことごとく平定された、と簡潔に記すだけである。
孟獲の名が現れるのは、5世紀に裴松之が『三国志』に付けた注の中である。裴松之が引く『漢晋春秋』によれば、雍闓が殺されたあと、孟獲がその後を継いで人々を率いた。孟獲は、土地の諸部族の人々にも漢人にも慕われていた人物だったという。諸葛亮は孟獲を生け捕りにすると、自分の陣営を見せて回り、この陣立てをどう思うかと尋ねた。孟獲は、さっきは陣の様子を知らなかったから負けたのだ、こういう陣なら簡単に勝てる、と答えた。諸葛亮は笑って彼を放し、ふたたび戦わせた。こうして七度放し、七度捕らえた。七度目に捕らえて放そうとすると、孟獲は去ろうとせず、公は天の威を持つ方です、南の人はもう二度と背きません、と言ったという。

出陣の前に、参謀の馬謖が諸葛亮に、城を攻めるより心を攻めるのが上策だ、と進言したという話も、別の書物から注に引かれている。七たび捕らえて七たび放すという話は、この方針を見事に実行した物語として、後の世に広く語り継がれた。ただ、本当に七度も捕らえては放したのかについて、後の歴史家の多くは、誇張や脚色があると見ている。南中の人々を力ずくでなく、心服させて治めようとした諸葛亮の姿勢を、印象的な数字で語った話と考えるのが一般的である。
平定のあと、諸葛亮は南中に蜀の役人や兵を大勢残すことはせず、土地の有力者たちを登用して治めさせたと伝えられる。地方の歴史を記した『華陽国志』は、孟獲が蜀の朝廷で御史中丞という高い官に就いたと記している。南中からは、牛や馬、金や銀、漆などの物資がもたらされ、勇猛な兵も蜀の軍に加えられて、その後の北伐を支えた。もっとも、南中の反乱はその後も何度か起きており、平定が一度で完全に終わったわけではない。
孟獲という人物を誰もが知る存在にしたのは、明の時代にまとめられた小説『三国志演義』である。演義は、七たび捕らえる話を数回にわたる長い物語にふくらませた。孟獲は南蛮の王として描かれ、火の神の子孫で飛刀の名手である妻の祝融夫人、弟の孟優、猛獣を操る木鹿大王、油を染み込ませた籐の鎧で刃を通さない兵を率いる兀突骨など、奇想天外な人物たちが次々に現れて、諸葛亮の知略と戦う。日本でも、この物語を通して孟獲の名は広く知られている。
演義の中で、孟獲は異民族の王である。だが、史料の上の孟獲が漢人だったのか、土地の諸部族の人だったのかは、はっきりしない。孟という姓は、南中に古くから根を下ろした漢人系の有力な一族の姓でもあった。土地の人にも漢人にも慕われていた、という『漢晋春秋』の言葉は、孟獲が二つの世界の間に立つ人物だったことを示しているのかもしれない。
雲南や四川の南部には、いまも孟獲を祀る廟や、孟獲にまつわる伝説、地名が残っている。雲南に暮らす彝族の人々の中には、孟獲を自分たちの祖先の英雄として語り伝えてきた人々もいる。そうした廟の中には、孟獲とともに、彼を降した諸葛亮を祀るものもある。戦った勝者と敗者が同じ場所で祀られているのは、この地の人々が二人の物語を、征服の話としてではなく、和解の話として受け取ってきたからだろう。南中の地には、のちに南詔や大理という独自の王国が生まれ(段思平)、中国の王朝とのあいだで、近づいたり離れたりを繰り返していく。