人物

馬超

Ma Chao
AD176年 – AD222年(享年46・推定)
蜀重要度 3

概要

涼州の馬騰の子。羌の血。潼関で曹操を脅かし、負けて、父と一族200人が曹操に殺された。張魯に身を寄せ、劉備に。成都の劉璋が彼を見て降った。「五虎大将」は演義。蜀で重く用いられず、47歳で死んだ。「一族は皆殺され、従弟の馬岱だけ残った」と遺言した。

所属

蜀

関わったできごと(1)

潼関の戦いAD211年 · 敗れた

本文

字は孟起。176年、扶風郡茂陵(いまの陝西省)の人、馬騰の長男として生まれた。一族は後漢の初めの名将馬援の子孫を称したが、祖父の代に没落して西方の涼州に移り住み、祖父は羌族の女性を妻に迎えた。父の馬騰はその子で、半ば羌の血を引いていた。羌や氐などの民族と漢人が入り混じる涼州で、馬騰は同じく涼州の実力者韓遂と義兄弟の契りを結び、のちには互いに攻め合い、韓遂が馬騰の妻子を殺したこともあった。馬超はそうした辺境の荒々しい世界で育った。

馬超
馬超Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

202年、馬超は中央の命で、曹操の部下鍾繇を助けて河東の戦いに加わり、足に矢を受けながら戦い、配下の龐徳が敵将郭援を討ち取った。208年、曹操は馬騰を都に呼び寄せて衛尉の位を与え、一族の多くも鄴に移った。体のいい人質である。涼州に残った馬超が父の兵を引き継いだ。

211年、曹操は漢中の張魯を討つと称して、関中に兵を送った。道筋にいる自分たちを狙っていると見た馬超は、韓遂ら関中の諸将とともに挙兵した。父と一族が曹操の手の内にいることを承知の上でのことだった。両軍は黄河の渡し場の潼関で向き合った(潼関の戦い)。曹操が北へ迂回して黄河を渡ろうとしたとき、馬超は渡河の途中を襲い、雨のように矢を浴びせた。護衛の許褚が馬の鞍を盾にして曹操をかばい、部下が牛や馬を放って馬超の兵の目をそらしたので、曹操はかろうじて逃れた。しかしその後、曹操の謀臣賈詡の策で、馬超と韓遂は互いを疑うように仕向けられ、渭水の南の決戦で大敗した。

潼関の戦いに関わる図版:Xu Chu and Ma Chao
潼関の戦いWikimedia Commons shizhao ( talk )拍摄,画者不明 · Public domain

翌212年、鄴にいた馬騰と、弟の馬休・馬鉄、一族200人余りが処刑された。213年、馬超は涼州で再起し、冀城を囲んで降らせ、命は助けると約束しながら、刺史の韋康を殺した。これに憤った韋康の旧臣楊阜や姜叙らが兵を挙げ、馬超が城を出たすきに冀城を奪い返して、城内にいた馬超の妻子を殺した。馬超はすべてを失い、漢中の張魯のもとへ逃れた。

張魯は馬超を迎え、娘をめとらせようとまで考えたが、側近が、自分の親さえ大事にできない者が、どうして他人を大事にできようか、と言って止めたという。父を見捨てて挙兵した男、という目が、彼にはついて回った。張魯の部下たちにも疎まれた馬超は、214年、成都を囲んでいた劉備のもとへ身を寄せた(劉備の入蜀)。劉備は喜び、馬超の兵を城の北に陣取らせた。西方の猛将が劉備についたと聞いて、成都の城内は震え上がり、劉璋は十日ほどで降伏した。

姜叙の母を殺す馬超(歌川国芳画)
姜叙の母を殺す馬超(歌川国芳画)Wikimedia Commons Print artist: Utagawa Kuniyoshi (歌川国芳) · Public domain

劉備は馬超を平西将軍とした。荊州にいた関羽は、新参の馬超がどれほどの者かと諸葛亮に手紙で尋ねた。諸葛亮は、孟起は文武の才を兼ね、勇猛さは人並みはずれた一代の傑物で、張飛と先を争うほどだが、髯殿(関羽)の抜きん出た様には及ばない、と答えた。関羽は喜んで、その手紙を客たちに見せたという。219年、劉備を漢中王に推す上表では、馬超が筆頭に名を連ねた。221年、劉備が皇帝になると、驃騎将軍・涼州牧に任じられた。涼州の出身で、羌の人々にも名の通った馬超を据えることで、北の魏に向き合う構えを示したのである。

だが、蜀での馬超が実際に大軍を率いて戦った記録はほとんどない。不遇を託っていた役人の彭羕が、あなたが外を、私が内を受け持てば天下は定まる、と謀反をにおわせたとき、馬超はすぐに劉備にこれを告げ、彭羕は処刑された。身の置きどころのない亡命の将として、疑われることを何より恐れていたのだろう。

許褚が庇う曹操(左中央)に矢を放つ馬超(右上)
許褚が庇う曹操(左中央)に矢を放つ馬超(右上)Wikimedia Commons 周曰校(Before 1640) · Public domain

222年、馬超は47歳(数え)で死んだ。死の床で劉備に上書した。私の一族200人余りは曹操に殺され尽くし、ただ従弟の馬岱だけが残りました。どうか彼に家の祭祀を継がせてください。馬岱はのちに蜀の将として魏と戦っている。

陳寿は『三国志』で、関羽、張飛、馬超、黄忠、趙雲を一つの巻にまとめ(陳寿『三国志』)、馬超については、異民族の力を頼み勇を誇って一族を滅ぼした、惜しいことだ、と評した。『三国志演義』の馬超は、白銀の鎧をまとった「錦馬超」として、父の仇を討つために曹操を追い詰め、曹操が髯を切り、着物を脱ぎ捨てて逃げる場面や、張飛と夜を徹して一騎打ちをする場面で読者を沸かせる。五虎大将の一人という位置づけも演義のもので、正史では、父を死なせた挙兵と、二度の敗北と、亡命の晩年が残るだけである。それでも、陝西省勉県にあるとされる墓をはじめ、ゆかりの土地で、馬超は今も英雄として祀られている。

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