黄巾の乱
概要
宗教結社が起こした大反乱。鎮圧のために各地の実力者が兵を持ち、後漢は実権を失う。
場所
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省
本文
2世紀後半の後漢は、内側から腐っていた。幼い皇帝が続き、実権は皇后の一族の外戚と、宮中に仕える宦官とのあいだを行き来した。宦官を批判した官僚や学者たちは、166年と169年の党錮の禁で官職を追われ、多くが獄死した。官職は売り買いされ、地方では豪族が土地を集め、土地を失った農民は流民となってさまよった。そこへ飢饉と疫病が重なった。
この時代に、病を治すことを入口にした宗教の集団が二つ現れた。西の漢中に広がった五斗米道の始まりと、東の華北に広がった太平道である。太平道を開いた張角は、鉅鹿(いまの河北省)の人で、自らを大賢良師と称した。病人に自分の犯した罪を告白させ、呪文を唱えた水(符水)を飲ませる。治れば信心が厚いからであり、治らなければ信心が足りないからだとされた。医者も薬も手の届かない人々にとって、それは救いだった。

張角は弟の張宝、張梁とともに弟子を各地に送り、十数年のうちに信者は数十万にふくれあがった。信者は36の「方」に組織され、大きな方は1万余り、小さな方は6、7千人を抱えたと伝えられる。青・徐・幽・冀・荊・揚・兗・豫の八つの州にまたがる、宗教の形をとった軍隊だった。
合言葉は「蒼天已に死す、黄天当に立つべし、歳は甲子に在り、天下大吉」。漢の天は尽き、黄色の天が立つ。甲子の年、つまり干支が一巡りして新しく始まる184年に、世が改まるという予言である。蜂起は184年の3月5日と決められ、都の洛陽でも宦官のなかに内通する者が作られていた。

ところが計画は、弟子の一人の密告で漏れた。洛陽で準備に当たっていた幹部の馬元義は車裂きの刑に処され、都の信者が千人以上捕らえられて殺された。張角は予定を早め、2月に各地で一斉に蜂起させた。信者たちは目印に黄色い頭巾を巻いたので、黄巾と呼ばれた。役所が焼かれ、役人が殺され、反乱はたちまち各地に広がった。
朝廷はあわてて手を打った。外戚の何進を大将軍として都を固め、皇甫嵩、朱儁、盧植らを討伐に送った。同時に、反乱と結ぶことを恐れて党錮の禁を解き、追われていた官僚たちを許した。そして各地の豪族や役人に、自ら兵を集めて黄巾を討つことを認めた。

この討伐のなかから、次の時代の主役たちが出てくる。若い曹操は騎兵の指揮官として潁川の黄巾を討った。呉の孫堅は朱儁の下で戦い、のちの蜀の皇帝劉備は郷里で義勇兵を集めて手柄を立て、小さな県の役人の地位を得た。後の小説『三国志演義』が劉備・関羽・張飛の桃園の誓いから物語を始めるのは、この戦いが三国の英雄たちの出発点だったからである。もっとも、桃園の誓いは小説の創作で、正史には書かれていない。
張角は蜂起した年のうちに病で死に、張梁、張宝も皇甫嵩らに討たれた。張角の棺は暴かれ、首は都へ送られたという。主力は1年足らずで崩れたが、黄巾を名乗る集団や、黒山の賊のような武装した集団は各地に残り、その後も20年近く反乱が続いた。192年には曹操が青州の黄巾の大軍を降し、その中から兵を選んで自らの軍の中核に据えている。
反乱そのものより後に残ったのは、鎮圧のために朝廷が手放したものだった。188年、地方の長官である州牧に兵と財政の大きな権限を与える制度が復活し、兵を持った地方の実力者が、都の命令に従わなくても困らない状態ができあがった。189年に皇帝が亡くなると、宮中では何進と宦官が殺し合い、その混乱に乗じて西の涼州の兵を率いる董卓が洛陽に入る。翌年には董卓の洛陽焼き討ちが起き、漢の都は灰になった。
後漢の皇帝は、この後も220年まで名目の上では続く。しかし実際の力は、黄巾を討つために兵を集めた者たちの手に移っていた。彼らの争いが、やがて三国の鼎立の時代を作ることになる。