孫策
概要
孫堅の長男。父が死んで袁術の下に。「小覇王」。周瑜と同い年で、二人で大喬と小喬を娶った。5年で江東を取り、曹操が「あの若造と争えない」と言った。官渡の最中に許を襲おうとして、狩りで刺客に顔を射られた。26歳。「江東の衆を挙げて天下と争うなら、お前は私に及ばない。賢を用いて江東を守るなら、私はお前に及ばない」。
所属
呉関わったできごと(2)
孫策の江東平定AD195年 · 平定赤壁の戦いAD208年 · その弟が本文
字は伯符。175年、長江の下流、呉郡富春の人として生まれた。父の孫堅は、黄巾の乱や董卓との戦いで勇名を馳せた武将で、「江東の虎」と呼ばれた。孫策はその長男である。

父が戦に明け暮れる間、孫策は母や弟たちとともに、廬江郡の舒の町に移り住んだ。ここで、同い年の周瑜と出会う(周瑜)。周瑜は名門の出で、孫策の一家に大きな屋敷を譲り、孫策の母を自分の母のように敬ったと『三国志』は伝える。二人は兄弟のように親しく、この友情がのちに江東の歴史を動かすことになる。
191年、父の孫堅が、荊州の劉表の配下の黄祖と戦って討ち死にした。孫策は17歳だった。父の兵は、父が仕えていた袁術に吸収された。孫策は父を葬ったのち、袁術のもとへ身を寄せた。袁術はこの若者を高く買い、自分に孫策のような息子がいれば死んでも思い残すことはない、と言ったという。だがその一方で、九江の太守にすると約束しては別の者を任じ、廬江を攻め取れば太守にすると約束しては、また反故にした。孫策の不満は募っていった。

194年ごろ、孫策は、江東で劉繇に圧迫されている叔父の呉景を助けたいと願い出た。袁術から与えられたのは、千人あまりの兵と数百の騎馬にすぎなかった。だが長江に向かう途中、加わる者が相次ぎ、兵は五、六千に膨れ上がった。周瑜も兵と船と食糧を率いて駆けつけた。
195年、長江を渡った孫策の軍は、劉繇の軍を次々に破った(孫策の江東平定)。孫策は軍規に厳しく、兵に略奪を禁じた。鶏や犬、野菜一つ取ることも許さなかったという。初めは孫郎が来ると聞いて逃げ隠れしていた民は、やがて喜んで牛や酒を差し出しに来た。彼は若く美しい顔立ちで、よく笑い、人の意見を素直に聞き、人を使うのがうまかった。彼に会った者は、みな命を惜しまず働こうとしたと『三国志』は書く。

数年のうちに、孫策は呉郡と会稽郡を押さえた。197年に袁術が勝手に皇帝を名乗ると(袁術の皇帝僭称)、孫策は手紙を送って厳しく非難し、袁術と縁を切った。199年には、袁術の旧臣が守る廬江郡の皖城を攻め落とした。このとき、土地の喬公の二人の娘を得て、姉の大喬を孫策が、妹の小喬を周瑜が妻にした、と『三国志』周瑜伝は伝える。同じ年、父の仇である黄祖を攻めて大いに破った。こうして長江下流の江東の地は、ほぼ孫策のものとなった。わずか5年ほどのことだった。
北では、曹操が黄河流域で袁紹と覇権を争っていた。南の孫策まで敵に回す余裕はない。曹操は姪を孫策の弟に嫁がせ、自分の息子には孫策の一族の娘を迎えて、縁を結んだ。『三国志』の注に引かれる記録によれば、曹操は孫策について、あの狂犬の子とはまともに鋒を争うのは難しい、ともらしたという。

200年、曹操と袁紹は官渡で対峙した(官渡の戦い)。『三国志』孫策伝によれば、孫策はこの隙に、曹操の本拠で皇帝のいる許都を襲おうと、ひそかに兵を整えていた。ただし、この計画が本当にあったのか、どこまで具体的だったのかについては、疑問を呈する研究者もいる。
計画が実行される前に、事件が起きた。かつて呉郡の太守だった許貢は、孫策は項羽のような人物だから都に召し出して手元に置くべきだ、という密書を朝廷に送ろうとしていた。これを知った孫策は許貢を殺した。許貢には恩を受けた食客たちがいた。ある日、孫策が一人で狩りに出て、供の者を引き離して馬を走らせていたとき、この食客たちに襲われた。顔を矢で射られ、深い傷を負った。
傷は重かった。鏡で自分の顔を見た孫策は、こんな顔になって、もう功業を立てることができようか、と叫んだと伝えられる。死を悟った彼は、側近の張昭らを呼んで、弟の孫権を託した。そして孫権に印綬を授け、こう言った。江東の兵を率いて、敵陣で勝機を見極め、天下と覇を争うことでは、お前は私に及ばない。だが賢い者を用い、能ある者を任じて、人々に力を尽くさせ、江東を保つことでは、私はお前に及ばない。その夜、孫策は死んだ。数え26歳だった。
後世の物語『三国志演義』(『三国志演義』)では、孫策の死には別の話が加わっている。民衆に崇められていた道士の于吉を、孫策は人心を惑わすとして斬った。その後、于吉の亡霊に悩まされ、鏡に映る于吉の姿を見て叫び声を上げ、傷口が裂けて死んだ、というものである。于吉の話は六朝時代の書物にすでに見えるが、歴史書としての『三国志』の本文にはなく、物語として広まったものである。
『三国志』を書いた陳寿は、孫策を、際立った英気と猛々しさで世に冠たる人物と評しながら、軽はずみで、せっかちだったために命を落としたと書いた。孫権は兄の遺した基盤を守り、やがて帝位について、兄に長沙桓王の名を贈った(孫権の帝位)。だが孫策の遺児の孫紹は王にはされず、侯にとどまった。陳寿はこれを、兄の功に対する報いとして薄い、と批判している。孫策の娘の一人は、のちの呉の名将陸遜に嫁いだ。
親友の周瑜も、10年後の210年、36歳で病死した。もしこの二人が長く生きていたら、と江東の人々は惜しんだ。後世、孫策は項羽にたとえられ、「小覇王」と呼ばれている。