袁術の皇帝僭称
概要
孫策が置いていった伝国の璽を持ち、「代漢者当塗高」の讖を自分のことと読んで、寿春で「仲」の皇帝を名乗った。誰も認めず、曹操と呂布と孫策に攻められ、2年で兵糧が尽き、蜂蜜を求めて「ない」と言われ、血を吐いて死んだ。
場所
32.58°N 116.79°E · 中国・安徽省寿県
関わった人(1)
袁術?–AD199年 · 皇帝を名乗った本文
袁術は、汝南の袁氏という後漢屈指の名門に生まれた。四代にわたって三公、つまり朝廷の最高の官職に就いた者を出した家で、「四世三公」と称された。同じ家の袁紹は、袁術とは父を同じくする兄とされるが、母の身分が低かった。正妻の子である袁術は、その袁紹を、我が家の奴僕だとさげすんだと伝えられる。二人はのちに天下を争う群雄となり、互いに敵の側と手を結ぶ仇どうしになった。
189年、都の洛陽を董卓が押さえると、袁術は都を逃れて南陽に拠った。董卓に反対する諸侯が兵を挙げると、袁術は長沙から北上してきた孫堅を味方につけ、董卓の軍と戦わせた。だが孫堅は191年か192年に荊州の劉表との戦いで死に、193年には袁術自身も曹操に大敗して、淮水の南の寿春に移った。それでも淮南は豊かな土地で、袁術はここで一大勢力を保った。

袁術の手には、伝国の璽があったとされる。秦の始皇帝が作らせ、代々の皇帝に受け継がれてきたという玉の印である。董卓の乱で行方が分からなくなったが、洛陽に入った孫堅が井戸の中から見つけたと伝えられる。それが孫堅の死後、袁術の手に渡ったという。袁術が孫堅の妻を留めて奪ったとも、孫堅の子の孫策が兵を借りる代わりに差し出したとも言われ、話は一定しない。後者は後世の小説で広く知られた筋である。
当時、「漢に代わる者は当塗高」という予言の言葉が出回っていた。袁術はこれを自分のことだと読んだ。「塗」は道の意味で、袁術の字は「公路」、名の「術」もまた道を意味する字だったからである。さらに袁氏は、古代の聖王の舜の血を引く家だと称していた。漢の徳が尽き、新しい天命が自分に下る、と袁術は考えた。197年、袁術は寿春で皇帝を名乗り、国号を「仲」とした。都の許には、曹操に迎えられた漢の献帝がまだ生きていた。

周りのだれもこれを認めなかった。孫策はこの即位をきっかけに、袁術と縁を切った。徐州の呂布とは、袁術の子と呂布の娘を結婚させて手を結ぼうとしたが、呂布は途中で心変わりして袁術の使者を曹操のもとへ送り、攻めてきた袁術の大軍を破った。同じ年、曹操にも攻められて、袁術は多くの将を失った。そのうえ淮南は日照りと飢饉に襲われた。袁術は宮殿で数百人の妃嬪に美しい衣を着せ、美食を楽しむ一方で、兵士は飢え、民の間では人が人を食べるほどだったと記録は伝える。配下の将の中にも、背いて離れていく者が出た。
199年、追い詰められた袁術は、帝号を袁紹に譲り、袁紹の子の袁譚がいる北の青州へ逃れようとした。皇帝の座をあれほどさげすんだ兄に差し出したのである。曹操は劉備らを送って行く手をふさぎ、袁術は寿春へ引き返すしかなかった。その途中の江亭で、袁術は力尽きた。

その最期を、呉の歴史書は次のように伝えている。夏の暑い盛りで、袁術は蜜を溶かした水を飲みたいと言ったが、陣中にはもはや蜜が無かった。寝台に座りこんでしばらく嘆き、この袁術がこんなところまで落ちぶれたのか、と叫ぶと、血を吐いて死んだ。皇帝を名乗ってから、わずか2年あまりのことだった。
袁術が死ぬと、伝国の璽は、袁術のもとに留め置かれていた漢の旧臣の手で、許の朝廷に届けられた。妻子は廬江の太守を頼ったが、その太守を孫策が破り、袁術の娘はのちに孫策の弟の孫権の後宮に入った。息子は呉に仕えて役人になった。かつて袁術に仕えた孫家が、その遺族を引き取ったことになる。
陳寿の陳寿『三国志』は、袁術を、おごりと欲望のままにふるまい、際限なく税を取り立てて民を苦しめた人物として、短い伝にまとめている。後漢の末の群雄の中で、献帝の存命中に皇帝を名乗ったのは袁術だけだった。曹操も袁紹も、実力では袁術をしのぎながら、自分から帝位には就かなかった。漢の名をかついでいるほうが人を集められると知っていたからである。漢に代わる王朝が開かれたのは、袁術の死から20年あまりのち、曹操の子の曹丕のときだった(曹丕の即位(漢の滅亡))。のちの小説『三国志演義』は袁術を、璽を手にして身の程を忘れた愚か者として描き、蜜の水の話は彼の最後を語る逸話として長く残った。