司馬炎の晋建国
概要
祖父司馬懿が高平陵で曹爽を殺し、父司馬昭が皇帝を路上で殺させ、その子が曹奐に禅譲させた。45年前に曹丕がしたのと同じ儀式で。晋。15年後に呉を取って中国を一つにし、その10年後に八王の乱で壊した。
場所
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省
関わった人(1)
司馬炎AD236年–AD290年 · 皇帝本文
266年2月(魏の暦で咸熙2年12月)、洛陽の南の郊外に壇が築かれた。魏の最後の皇帝曹奐が、帝位を晋王の司馬炎に譲る儀式である。司馬炎は帝位につき、国の名を晋、年号を泰始と改めた。46年前、曹丕が漢の献帝から帝位を譲られたのと(曹丕の即位(漢の滅亡))、同じ形の儀式だった。魏は始まったときと同じやり方で終わった。
司馬氏が魏の天下を手にするまでには、三代かかった。祖父の司馬懿は曹操に仕えた官僚で、蜀の諸葛亮の北伐を防ぎ続けて名を上げた。234年に諸葛亮が陣中で病死したあとも(五丈原と諸葛亮の死)、司馬懿は魏の重臣として残った。249年、幼い皇帝曹芳が先帝の陵墓である高平陵へ参拝に出たすきに、司馬懿は洛陽で兵を挙げ、皇族の実力者曹爽の一派を捕らえて一族ごと処刑した。高平陵の変である。この日から、魏の実権は司馬氏に移った。

司馬懿は251年に死に、長男の司馬師が後を継いだ。254年、司馬師は皇帝曹芳を廃して、曹髦を立てた。翌年に司馬師が死ぬと、弟の司馬昭が実権を握った。曹髦は学問を好む聡明な若者だったが、何もできない皇帝であることに耐えられなかった。260年、曹髦は「司馬昭の心は、道行く人でも知っている」と言い、宮中の衛士や召使い数百人を率いて、自ら剣を取って司馬昭を討ちに出た。司馬昭の腹心の賈充は、迎え撃った兵の中の成済という者に命じて、皇帝を刺させた。曹髦は宮城の路上で死んだ。
皇帝を殺した罪は誰かが負わなければならない。司馬昭は手を下した成済とその一族を処刑し、命じた賈充は罰しなかった。賈充はその後も重用され、娘の賈南風はやがて司馬炎の息子の妃になる。次の皇帝には、曹操の孫にあたる十代半ばの曹奐が立てられた。

263年、魏は蜀を攻め、劉禅を降伏させた。三国の一つが消えたこの功で、司馬昭は晋公の位を受け、翌年には晋王になった。王の位は、禅譲の一歩手前である。曹丕が帝位に即く前に魏王だったのと同じ道筋だった。265年、司馬昭は帝位を目前にして死んだ。長男の司馬炎が30歳で晋王を継ぎ、その年の暮れに禅譲を受けた。曹奐は陳留王に封じられ、皇帝の礼を許されて、302年まで生きた。
司馬炎は、魏の失敗から学んだつもりだった。魏の皇帝たちは、帝位を脅かすことを恐れて、皇族を地方に封じても兵も権限も与えなかった。そのため、司馬氏が実権を奪ったとき、魏の皇室を守る者は誰もいなかった。司馬炎は逆に、叔父や従兄弟たち二十数人を王に封じ、それぞれに兵を持たせた。一族が皇室の守りになるはずだった。この判断が、のちに国を壊すことになる。

即位から14年後の280年、晋は南の呉を滅ぼした。長江の上流、益州で王濬が大船を造らせ、流れに乗って長江を下った。呉の皇帝孫晧は抵抗をあきらめて降伏した(呉の滅亡(晋の統一))。赤壁の戦いから72年、黄巾の乱から数えれば約100年続いた分裂が、ここで終わった。
統一ののち、晋は「太康」の年号のもとで、短い安定の時代を迎えた。占田・課田法を定め、身分に応じて持てる田の広さと税の負担を決めた。戸ごとに絹や綿を納めさせる戸調式も、このとき整えられた。各地の州郡の兵を減らし、民に戻した。史書は、この時代には天下に飢えた人がいなかったと称える。後漢の末から数えて、中国が一つの王朝のもとにまとまっていたのは、魏晋南北朝の300年あまりの中で、ほぼこの時期だけだった。
ただ、司馬炎の後半生は締まりがなかった。呉の宮女を後宮に入れ、後宮の女性は万を数えたという。夜ごとに羊に引かせた車に乗って後宮をめぐり、羊が止まった部屋で夜を過ごしたので、宮女たちは戸口に羊の好む竹の葉を挿し、塩を撒いた、という逸話が『晋書』に残る。重臣たちの間では、石崇と王愷が富を競い合うような奢りが広がった。
最大の問題は後継ぎだった。太子の司馬衷は、政治を担えないと周囲の誰もが見ていた。飢饉で民が米も食べられないと聞いて「なぜ肉の粥を食べないのか」と言った、という話が伝わるのはこの人である。司馬炎は群臣の懸念を知りながら太子を替えず、290年に55歳で死んだ。司馬衷が即位して恵帝となった。
恵帝の妃、賈南風は権力を握ろうとして、外戚の楊駿や皇族の王たちを次々に殺した。王たちも兵を挙げて互いに争い、16年にわたる八王の乱が始まった。司馬炎が皇室の守りとして兵を持たせた一族が、その兵で殺し合ったのである。洛陽は何度も戦場になり、王たちは戦力として北方の匈奴や鮮卑の騎兵を呼び込んだ。304年、匈奴の劉淵が自立して漢王を名乗った。311年、劉淵の子の軍が洛陽を落とし、皇帝の懐帝を連れ去った。316年には長安も落ち、愍帝が降伏して、西晋は滅んだ。建国から51年だった。

一族の司馬睿が江南に逃れて建康(いまの南京)で即位し、東晋として晋の名をつないだ。北には遊牧の諸民族が次々に国を建てる五胡十六国の時代が始まり、中国が再び一つになるのは、589年の隋の統一まで待たなければならない。
晋は、三国の戦いを終わらせた王朝として記憶される。だがその終わらせ方は、戦場の勝利というより、宮廷の中での長い権力の奪取だった。司馬懿から司馬炎まで三代かけて手にした天下は、魏の失敗を逆向きに繰り返す形で、次の代で崩れた。『三国志』の物語は、劉備でも曹操でもなく、司馬氏の禅譲で終わる。