赤壁の戦い
概要
曹操の南下が水上で阻まれ、中国の統一が遠のいた。三国が並び立つ時代に入る。
場所
29.72°N 113.93°E · 中国・湖北省(位置に諸説ある)
関わった人(2)
曹操155年–220年3月15日 · 曹操側 · 総指揮孫策AD175年–AD200年 · その弟が本文
後漢の末、184年の黄巾の乱をきっかけに各地の群雄が争った。その中から抜け出したのが曹操である。曹操は献帝を自分の本拠に迎えて朝廷の権威を手にし、200年の官渡の戦いで最大の敵袁紹を破った。その後も袁氏の残党を追って北方を平らげ、208年には自ら丞相の位に就いた。
この年の秋、曹操は南へ兵を向けた。目標は長江の中流域、荊州である。ちょうど荊州を治めていた劉表が病死し、跡を継いだ子の劉琮は戦わずに降伏した。荊州に身を寄せていた劉備は南へ逃れ、長坂で曹操の騎兵に追いつかれて妻子を置き去りにするほどの大敗を喫した。劉備は残った兵とともに、長江沿いの夏口へ落ちのびた。
曹操はさらに、長江の下流、江東を治める孫権に降伏を促す書を送った。孫権は兄の孫策が築いた地盤を18歳で受け継ぎ、このとき26歳だった。家臣の多くは降伏を説いた。だが周瑜と魯粛は、北方の兵は水上の戦いに慣れず、慣れない土地で疫病にもかかる、戦えば勝てると説いた。孫権は刀を抜いて机を切り、これ以上降伏を口にする者はこの机と同じになる、と言ったと伝えられる。劉備のもとからは諸葛亮が使者として来て、両者の同盟がまとまった。
曹操は80万の大軍と号した。だが周瑜は、北から連れてきた兵は15、6万、荊州で降った兵が7、8万、それも心から従ってはいないと見積もったという。迎え撃つ周瑜の兵は3万ほどだった。両軍は長江の赤壁と呼ばれる場所で出会い、最初の小競り合いでは曹操軍が退いて、長江の北岸に陣を構えた。

正史『三国志』(陳寿『三国志』)の周瑜の伝には、曹操軍の船が船首と船尾を接して並んでいたので、焼き払えば敗走させられる、と部将の黄蓋が進言したと書かれている。黄蓋は曹操に偽って降伏を申し出る書を送り、油を注いだ枯れ草を積んだ船十隻を率いて近づいた。間近で火を放つと、折からの強い風に煽られて火は曹操軍の船に燃え移り、岸の陣営まで焼き尽くした。
『三国志演義』は、この話を大きく膨らませた。龐統が曹操に、船を鎖で繋げば揺れずに済むと勧める「連環の計」。諸葛亮が祭壇で祈って東南の風を呼ぶ場面。諸葛亮が霧の中で藁を積んだ船を曹操の陣に近づけ、射かけられた矢を十万本集める場面。敗走する曹操を関羽が義理に感じて見逃す場面。いずれも演義の創作で、正史には無い。80万という数字も、演義が号した数字を事実のように扱ったもので、誇張とされる。

正史の書きぶりはもっと簡素である。曹操の本紀は、赤壁で劉備と戦って不利となり、疫病が流行して多くの兵が死んだので引き揚げた、と記すだけだ。曹操自身は後に孫権に宛てた手紙で、疫病があったので自分で船を焼いて退いたのに、周瑜に虚名を得させてしまった、と負け惜しみを書いたと伝えられる。火攻めと疫病のどちらがより大きく響いたのかは、今も議論がある。
赤壁がどこだったのかも確かではない。今の湖北省赤壁市にある長江南岸の崖がそれだとする説が有力だが、ほかにもいくつかの候補地がある。

北宋の詩人蘇軾は、1082年、流された先の黄州で長江の崖に舟を浮かべ、曹操と周瑜の昔をしのぶ『赤壁賦』を書いた。だがその崖は、戦いのあった場所とは別だと考えられている。そのため中国では、戦いの場所を「武赤壁」、蘇軾が詠んだ場所を「文赤壁」と呼び分けている。
曹操は華容の道を通って北へ逃れた。道はぬかるみ、弱った兵を地に敷いて騎兵を通したとも伝わる。この敗戦で、曹操は南下を断念した。劉備は荊州の南部を手に入れ、やがてそこを足場に益州(今の四川)へ入る(劉備の入蜀)。周瑜は江陵を落としたが、210年に若くして病死した。

荊州は、その後も呉と蜀の争いの種になった。劉備は孫権から荊州を借りたという形をとり、呉はその返還を求め続けた。219年、荊州を守っていた関羽が魏を攻めて北上した隙に、呉は背後から荊州を奪い、関羽は捕らえられて斬られた(関羽の死と荊州の喪失)。赤壁で手を結んだ二つの勢力は、11年後には互いに刃を向けていた。
220年に曹操が死ぬと、子の曹丕が献帝から位を譲られて魏を建てた。劉備は蜀で、孫権は呉で、それぞれ皇帝を名乗り、天下は三つに分かれた(三国の鼎立)。赤壁の戦いは、その分かれ目だった。中国が再び一つになるのは、晋が呉を滅ぼす280年、赤壁から70年あまり後のことである。