袁術
概要
袁紹の従弟で、嫡出。「四世三公」の家。董卓のあと南陽から淮南へ。孫堅と孫策を使った。伝国の璽。皇帝。誰も従わなかった。兵糧が尽き、袁紹の所へ行こうとして道を塞がれ、蜂蜜の水を求めて「血の水しかない」と言われ、「私がこうなるとは」と叫んで血を吐いた。
関わったできごと(1)
袁術の皇帝僭称AD197年 · 皇帝を名乗った本文
字は公路。汝南郡汝陽(いまの河南省)の人。袁氏は後漢きっての名門で、曾祖父の袁安から四代のあいだに五人が三公(最高位の大臣)に就き、「四世三公」と称された。父の袁逢も司空を務めている。袁紹とは従兄弟とも異母兄弟ともされる。袁紹は袁逢の妾の子で、伯父の袁成の跡を継いだと伝わり、正妻の子である袁術は、自分こそ袁家の嫡流だという意識を終生捨てなかった。のちに群雄が袁紹のもとに集まったとき、袁術は「あいつらは私に従わず、我が家の奴僕に従うのか」と言ったという。

若いころは侠気を好み、名門の子弟として都で顔を売った。孝廉に推されて官に就き、189年には近衛の長である虎賁中郎将になっていた。この年、大将軍何進が宦官に殺されると、袁術は兵を率いて宮殿に火を放ち、袁紹とともに宦官を皆殺しにした。その混乱の中で董卓が都に入り、実権を握る。董卓は袁術を後将軍に任じたが、袁術は害を恐れて南陽へ逃れた。
南陽は人口の多い豊かな郡だった。袁術はここを拠点に、反董卓の連合軍に加わった。前線で戦ったのは、袁術が引き立てた長沙太守の孫堅である。孫堅が快進撃を続けると、袁術の周りには、孫堅が洛陽を取れば手に負えなくなると吹き込む者がいて、兵糧の輸送が止まった。孫堅は夜を徹して馬を飛ばして袁術のもとへ行き、自分は国のため、そして将軍のために戦っているのだと訴え、袁術は恥じて兵糧を送ったと伝わる。191年、孫堅は董卓を破って洛陽に入った(董卓の洛陽焼き討ち)。このとき孫堅が井戸から伝国の玉璽を見つけたという話が『呉書』にある。

同じころ、袁紹は幽州の劉虞を皇帝に立てようとした。袁術は漢への忠義を口にしてこれに反対した。二人の対立は決定的になり、天下の群雄は袁紹派と袁術派に分かれて争った。袁術は北の公孫瓚と結び、袁紹は荊州の劉表と結んだ。孫堅は劉表を攻めて戦死した。193年、袁術は北へ出たところを曹操に大敗し、淮水の南の寿春へ移った。
それでも勢力はなお大きかった。孫堅の遺児孫策を手元に置き、のちに兵を貸して江東へ送り出した(孫策の江東平定)。伝国の玉璽は、孫堅の妻から取り上げたとも、孫策が兵を借りる質に差し出したとも言われる。195年から196年には、徐州をめぐって劉備と争い、劉備のもとに身を寄せていた呂布をそそのかして劉備の留守を襲わせ、徐州を奪わせている。

袁術は早くから帝位を夢見ていた。漢に代わる者は「当塗高」である、という古い予言があった。塗は路に通じる。字が公路である自分のことだと袁術は考えたという。袁氏は舜の子孫である陳の末裔で、火徳の漢に代わる土徳にあたる、という理屈も持ち出した。197年、寿春で帝位に就き、国号を仲とした(袁術の皇帝僭称)。献帝がまだ生きているなかで、群雄が誰もしなかったことを公然とやったのである。
反発はすぐに来た。孫策は絶縁状を送って独立し、曹操は討伐の軍を出した。袁術は呂布と縁組で手を結ぼうとしたが、陳珪の説得で呂布は娘を連れ戻し、袁術の使者を曹操に送って処刑させた。怒った袁術は呂布を攻めて大敗した。寿春では宮殿に数百人の女を置いて贅沢を続け、その一方で淮南は旱魃と飢饉で荒れ、民は人を食うほどだったと記録される。
199年、袁術は宮殿を焼いて寿春を捨てた。かつての部下を頼って断られ、最後には帝号を袁紹に譲ると申し出て、北の青州にいる袁紹の子袁譚のもとへ行こうとした。曹操は劉備を送って道をふさいだ。寿春へ引き返す途中、江亭まで来たとき、食糧は麦のくずが三十斛残るだけになっていた。暑い盛りで、袁術は蜂蜜を溶かした水を求めたが、蜂蜜はなかった。袁術は寝台に座りこんで長く嘆き、「袁術ともあろう者がここまで落ちたか」と叫んで血を一斗あまり吐いて死んだと『呉書』は伝える。同じ年、呂布も曹操に滅ぼされている(呂布の死)。
陳寿は、袁術は奢りと淫らさをほしいままにし、栄華を全うできなかったのは自ら招いたことだと評した。『三国志演義』では、身の程知らずの愚か者として描かれる。だが190年代の前半、袁術は四世三公の嫡子として、群雄の中でも最大級の勢力を誇っていた。孫策を江東に放ち、呂布を使って劉備を追ったのは彼である。そして、漢の皇帝がいる世で自ら皇帝を名乗った最初の男でもあった。のちに曹丕は禅譲の形を整え、劉備は献帝が殺されたという報せを待ち、孫権はさらに8年待った。袁術は待たなかった。待たなかった者がどうなるかを、彼は身をもって示した。