劉備の入蜀
概要
益州の劉璋が張魯を防ぐために劉備を呼び、劉備は3年後にその劉璋を囲んだ。龐統が雒城で矢に当たって死んだ。諸葛亮と張飛と趙雲が長江を遡って来た。劉璋は「私は三年、民を苦しめたくない」と降った。隆中対の半分が実った。
場所
30.66°N 104.06°E · 中国・四川省
関わった人(1)
劉備AD161年–AD223年 · 入った本文
207年、劉備は隆中の草庵に諸葛亮を三度訪ね、天下の取り方を問うた。諸葛亮が示したのは、北の曹操とは今は争わず、東の孫権とは手を結び、そのあいだに荊州と益州を取って足場にせよ、という策だった。益州は、いまの四川盆地を中心とする広い土地で、四方を険しい山に守られ、豊かな平野を持つ「天府の国」と呼ばれていた。益州の主の劉璋は気の弱い人で、家臣たちも主君を見限りかけている、と諸葛亮は見ていた。
208年の赤壁の戦いで曹操の南下が止まると、劉備は荊州の南の四郡を手に入れた。残るは益州である。211年、その機会は向こうからやってきた。益州の北の漢中には、宗教の教団を率いる張魯がいて、劉璋と敵対していた。曹操が漢中を攻めるという知らせに、劉璋は、曹操が漢中を取れば次は益州だと恐れた。劉備に心を寄せていた家臣の張松は、同じ劉氏の劉備を招いて張魯を討たせればよいと勧め、法正が使者として荊州へ向かった。法正と張松はひそかに劉備に、益州を取るよう促した。

家臣の黄権は、劉備を入れれば益州は劉備のものになると強く反対し、王累は城門に逆さに吊り下がって諫めたと伝えられる。劉璋は聞き入れなかった。劉備は諸葛亮や関羽、張飛、趙雲を荊州の守りに残し、軍師の龐統とともに数万の兵を率いて長江をさかのぼった。涪の町で劉璋は自ら出迎え、宴は100日あまり続いた。龐統は、この席で劉璋を捕らえれば戦わずに益州が手に入ると勧めたが、劉備は、他国に入ったばかりで恩も信もまだ無い、と退けた。
劉備は北の葭萌まで進んだが、張魯を討ちには行かず、1年ほど、その地で人々に恩を施して人望を集めた。212年、曹操が東の孫権を攻めると、劉備は、荊州へ戻って孫権を助けたいので兵1万と兵糧を貸してほしいと劉璋に求めた。劉璋が渡したのは兵4000と、求めた半分の物資だけだった。そこへ、張松の兄が、弟が劉備と通じていると劉璋に知らせた。張松は斬られ、劉璋は関所の守りに、劉備を通すなと命じた。劉備は関所を守る将の楊懐と高沛を呼び出して斬り、兵を返して南へ攻め下った。

劉備の軍は涪を取り、綿竹の守将は降った。だが成都の北の雒城は堅く、包囲は1年近くに及んだ。この戦いのさなか、龐統は流れ矢に当たって死んだ。36歳だった。『三国志演義』では落鳳坡という地で待ち伏せにあって死ぬが、それは小説の脚色である。劉備は荊州から援軍を呼び、諸葛亮、張飛、趙雲が長江をさかのぼって益州の東から攻め入った。張飛は江州で老将の厳顔を捕らえた。厳顔は、わが州には首を斬られる将軍はいても降る将軍はいない、と言い放ち、張飛はその気骨に感じて縄を解き、客として遇したと伝えられる。
214年、雒城が落ち、劉備の軍は各地から集まって成都を囲んだ。そこへ西涼の勇将馬超が劉備のもとに身を寄せ、成都の北に陣を構えた。城内は震え上がった。城にはまだ精兵3万と1年分の食糧があり、役人や民も戦うつもりだった。それでも劉璋は、自分たち父子は20年あまり州を治めながら民に恩を施せなかった、3年の戦いで民が野に血を流したのは自分のためだ、これで心が安らかでいられようか、と言って城を開いた。数十日の包囲ののちだった。劉璋は荊州の公安に移された。

劉備は益州の主となり、諸葛亮は軍師将軍として留守の政治を任され、法正は蜀郡太守として謀の相談役になった。蜀の地の旧臣も多く用いられた。こうして隆中で描いた荊州と益州の二つが、劉備の手にそろった。しかし、それは長く続かなかった。翌年には荊州の東半分を孫権に譲り、219年には漢中を曹操から奪って漢中王を名乗ったものの、同じ年、荊州を守っていた関羽が孫権に討たれた(関羽の死と荊州の喪失)。二つの州を同時に持ったのは5年ほどにすぎない。益州は、その後の蜀漢の国の土台となった。
『三国志演義』の劉備は仁徳の人として描かれるが、正史の『陳寿『三国志』』を読めば、劉備が同じ一族の劉璋を頼って入り、その国を奪ったことは隠しようがない。龐統伝には、劉璋と手切れになって涪の町を奪い取ったあとの宴で、劉備が今日の会は楽しいと言い、龐統が、人の国を討って楽しむのは仁者の戦いではない、と言い返した話がある。劉備は酔って怒り、龐統を追い出したが、すぐに呼び戻して、さっきの言い合いはどちらの誤りだったかと尋ねた。龐統は、君臣ともに誤りでした、と答え、劉備は大笑いしたという。正史の劉備は、そういう人だった。