諸葛亮の南征
概要
劉備の死で南中の四郡が背いた。諸葛亮は春に出て秋に帰った。「心を攻めるを上とし、城を攻めるを下とす」。孟獲を七度捕えて七度放したと『漢晋春秋』は伝える。南中の豪族と兵と銀と馬を得て、北伐の背後を固めた。饅頭の起源の話はここ。
場所
25.49°N 103.80°E · 中国・雲南省
関わった人(2)
諸葛亮AD181年–AD234年 · 丞相孟獲七縦七擒本文
223年、劉備は呉との夷陵の戦いに大敗したあと、白帝城で病に倒れて死んだ。跡を継いだのは17歳の劉禅で、政治の一切は丞相の諸葛亮に託された。蜀の国は、その足もとから揺らぎ始めた。
蜀の南、いまの雲南省から貴州省、四川省の南部にかけての土地は、南中と呼ばれた。漢族の移住者と、さまざまな民族の人々が入りまじって暮らす山がちの土地で、地元の豪族や首長の力が強かった。劉備の死を聞くと、益州郡の豪族の雍闓が蜀の任じた太守を殺し、後任の太守を縛って呉へ送り届けて、呉に従う姿勢を見せた。越嶲郡では異民族の首長の高定が、牂牁郡では太守の朱褒が背いた。雍闓は、異民族の人々に慕われていた孟獲を使って、人々を引き込んだとされる。

諸葛亮はすぐには兵を出さなかった。まず呉に使者を送って同盟を結び直し、国の内を固め、兵と兵糧を蓄えた。南へ兵を向けている間に、北の魏や東の呉に背後を突かれてはならないからである。2年をかけて足場を固めた諸葛亮は、225年の春、自ら軍を率いて成都を出た。
出陣のとき、見送った参謀の馬謖が言葉を贈ったと、『三国志』の注に引く『襄陽記』は伝える。南中は遠く険しい土地を頼んで久しく従わず、今日打ち破っても明日にはまた背くだろう。用兵の道は、心を攻めるを上とし、城を攻めるを下とする。どうか彼らの心を服させてほしい、と。諸葛亮はこの言葉を受け入れたという。

蜀の軍は三手に分かれて進んだ。諸葛亮は西の越嶲へ、李恢は中央の益州郡へ、馬忠は東の牂牁へ向かった。諸葛亮はのちに北伐に出るときに書いた「出師表」で、このときのことを「五月に瀘水を渡り、深く不毛の地に入った」と記している。瀘水はいまの金沙江にあたるとされるが、渡った場所ははっきりしない。反乱の側は足並みがそろわず、雍闓は高定の部下に殺された。蜀軍は高定を討ち、朱褒も平らげられた。
雍闓のあとを継いで人々をまとめたのが孟獲である。孟獲を七度捕らえて七度放したという話は、『三国志』の注に引く『漢晋春秋』に見える。捕らえた孟獲に蜀軍の陣を見せて、どうだと問うと、孟獲は、これまでは陣の様子を知らなかったから負けた、こうと分かれば勝てる、と答えた。諸葛亮は笑って放し、また戦わせた。七度目に放されたとき、孟獲は去らずに、公は天の威光を持つお方だ、南の人間は二度と背きません、と言ったという。陳寿の正史の本文には孟獲の名は出てこず、この話がどこまで事実かは分からない。

秋には南中の諸郡が平らいだ。諸葛亮は、南中に蜀の役人を多く置かず、軍も残さず、地元の首長たちにそのまま治めさせたと『漢晋春秋』は書く。役人を置けば兵を残さねばならず、兵を残せば兵糧を運ばねばならない。それに、戦で身内を殺された恨みも残っている。役人を置かず、兵糧を運ばずにすめば、異民族と漢族がともに安らかにいられる、という理屈だった。孟獲はのちに蜀の朝廷で御史中丞という役に就いたとされ、李恢は南中を見張る役に就いた。
南中は、蜀にとって大きな財源になった。金や銀、朱砂、漆、耕作の牛、軍馬が送られ、「軍の費用はこれによって足りた」と正史は書く。勇猛で知られた南中の人々の一部は蜀の本国へ移され、精鋭の部隊に編まれた。こうして背後を固めた諸葛亮は、227年、北の魏を討つ北伐に出る。その戦いは、7年後の五丈原と諸葛亮の死まで続くことになる。もっとも、南中はこれで完全に静まったわけではなく、その後もたびたび反乱が起き、蜀の将軍たちが鎮めに出向いている。

南征は、のちに『三国志演義』で何回分もの話に膨らまされた。孟獲の妻の祝融夫人、象に乗る木鹿大王、油を染み込ませた鎧を着た藤甲兵などは、物語の作り出したものである。饅頭の起こりをこの南征に求める話も有名だ。瀘水を渡るとき、川を鎮めるために人の首を供える風習があると聞いた諸葛亮が、代わりに小麦の皮で肉を包んで人の頭に見立てて供えた、というもので、宋の時代の書物に見える伝説である。雲南には、いまも孔明の名がついた地名や、孔明が農業や機織りを教えたという言い伝えが各地に残る。ずっと後の時代、この地には南詔と大理のような独自の王国が興ることになる。