できごと

諸葛亮の南征

Zhuge Liang's Southern Campaign
AD225年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民ササン朝ペルシア漢魏サカ族の王国蜀マガダスーレーン家の王国サータヴァーハナ朝カリンガ高句麗南匈奴アイヌチョーラ朝Yuebanチャンパ新羅シンハラAD225年曲靖(南中)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD225年の版図を描いています(18勢力)。

概要

劉備の死で南中の四郡が背いた。諸葛亮は春に出て秋に帰った。「心を攻めるを上とし、城を攻めるを下とす」。孟獲を七度捕えて七度放したと『漢晋春秋』は伝える。南中の豪族と兵と銀と馬を得て、北伐の背後を固めた。饅頭の起源の話はここ。

場所

曲靖(南中)
25.49°N 103.80°E · 中国・雲南省

関わった人(2)

諸葛亮AD181年–AD234年 · 丞相孟獲七縦七擒

本文

223年、劉備は呉との夷陵の戦いに大敗したあと、白帝城で病に倒れて死んだ。跡を継いだのは17歳の劉禅で、政治の一切は丞相の諸葛亮に託された。蜀の国は、その足もとから揺らぎ始めた。

蜀の南、いまの雲南省から貴州省、四川省の南部にかけての土地は、南中と呼ばれた。漢族の移住者と、さまざまな民族の人々が入りまじって暮らす山がちの土地で、地元の豪族や首長の力が強かった。劉備の死を聞くと、益州郡の豪族の雍闓が蜀の任じた太守を殺し、後任の太守を縛って呉へ送り届けて、呉に従う姿勢を見せた。越嶲郡では異民族の首長の高定が、牂牁郡では太守の朱褒が背いた。雍闓は、異民族の人々に慕われていた孟獲を使って、人々を引き込んだとされる。

明代の画家による諸葛亮の肖像(南薫殿本)
諸葛亮Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

諸葛亮はすぐには兵を出さなかった。まず呉に使者を送って同盟を結び直し、国の内を固め、兵と兵糧を蓄えた。南へ兵を向けている間に、北の魏や東の呉に背後を突かれてはならないからである。2年をかけて足場を固めた諸葛亮は、225年の春、自ら軍を率いて成都を出た。

出陣のとき、見送った参謀の馬謖が言葉を贈ったと、『三国志』の注に引く『襄陽記』は伝える。南中は遠く険しい土地を頼んで久しく従わず、今日打ち破っても明日にはまた背くだろう。用兵の道は、心を攻めるを上とし、城を攻めるを下とする。どうか彼らの心を服させてほしい、と。諸葛亮はこの言葉を受け入れたという。

孟獲
孟獲Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

蜀の軍は三手に分かれて進んだ。諸葛亮は西の越嶲へ、李恢は中央の益州郡へ、馬忠は東の牂牁へ向かった。諸葛亮はのちに北伐に出るときに書いた「出師表」で、このときのことを「五月に瀘水を渡り、深く不毛の地に入った」と記している。瀘水はいまの金沙江にあたるとされるが、渡った場所ははっきりしない。反乱の側は足並みがそろわず、雍闓は高定の部下に殺された。蜀軍は高定を討ち、朱褒も平らげられた。

雍闓のあとを継いで人々をまとめたのが孟獲である。孟獲を七度捕らえて七度放したという話は、『三国志』の注に引く『漢晋春秋』に見える。捕らえた孟獲に蜀軍の陣を見せて、どうだと問うと、孟獲は、これまでは陣の様子を知らなかったから負けた、こうと分かれば勝てる、と答えた。諸葛亮は笑って放し、また戦わせた。七度目に放されたとき、孟獲は去らずに、公は天の威光を持つお方だ、南の人間は二度と背きません、と言ったという。陳寿の正史の本文には孟獲の名は出てこず、この話がどこまで事実かは分からない。

雲南省中の曲靖市の位置
雲南省中の曲靖市の位置Wikimedia Commons Croquant · CC BY 3.0

秋には南中の諸郡が平らいだ。諸葛亮は、南中に蜀の役人を多く置かず、軍も残さず、地元の首長たちにそのまま治めさせたと『漢晋春秋』は書く。役人を置けば兵を残さねばならず、兵を残せば兵糧を運ばねばならない。それに、戦で身内を殺された恨みも残っている。役人を置かず、兵糧を運ばずにすめば、異民族と漢族がともに安らかにいられる、という理屈だった。孟獲はのちに蜀の朝廷で御史中丞という役に就いたとされ、李恢は南中を見張る役に就いた。

南中は、蜀にとって大きな財源になった。金や銀、朱砂、漆、耕作の牛、軍馬が送られ、「軍の費用はこれによって足りた」と正史は書く。勇猛で知られた南中の人々の一部は蜀の本国へ移され、精鋭の部隊に編まれた。こうして背後を固めた諸葛亮は、227年、北の魏を討つ北伐に出る。その戦いは、7年後の五丈原と諸葛亮の死まで続くことになる。もっとも、南中はこれで完全に静まったわけではなく、その後もたびたび反乱が起き、蜀の将軍たちが鎮めに出向いている。

曲靖を含む地図(米陸軍地図局、1954年)
曲靖を含む地図(米陸軍地図局、1954年)Wikimedia Commons Army Map Service , Corps of Engineers · Public domain

南征は、のちに『三国志演義』で何回分もの話に膨らまされた。孟獲の妻の祝融夫人、象に乗る木鹿大王、油を染み込ませた鎧を着た藤甲兵などは、物語の作り出したものである。饅頭の起こりをこの南征に求める話も有名だ。瀘水を渡るとき、川を鎮めるために人の首を供える風習があると聞いた諸葛亮が、代わりに小麦の皮で肉を包んで人の頭に見立てて供えた、というもので、宋の時代の書物に見える伝説である。雲南には、いまも孔明の名がついた地名や、孔明が農業や機織りを教えたという言い伝えが各地に残る。ずっと後の時代、この地には南詔と大理のような独自の王国が興ることになる。

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