孫皓
概要
呉の最後の皇帝。孫権の孫。最初は倉を開いて民を助け、それから酒を強い、目をえぐり、顔の皮を剥いだ。晋に降って洛陽で「帰命侯」。司馬炎が「この席をお前のために用意していた」と言うと「私も南で陛下のために席を用意していました」と答えた。
所属
呉関わったできごと(1)
呉の滅亡(晋の統一)AD280年3月 · 降った本文
242年、呉の皇太子孫和の子として生まれた。祖父は呉を建てた孫権である。しかし父の運命は暗かった。孫権の晩年、太子の孫和と弟の魯王孫覇のあいだで後継ぎ争いが起き、群臣が二派に割れて争った。250年、孫権は両方を退け、孫和は廃され、孫覇は死を賜った。孫和はのちに権臣孫峻に迫られて自害する。孫皓は廃太子の子として、烏程侯の位で地方に暮らした。
264年、呉の第3代皇帝孫休が死んだ。太子はまだ幼く、北では前年に蜀が魏に滅ぼされていた。重臣の濮陽興と張布は、年長で才のある君主を求め、孫皓と親しかった万彧が「才識明断」と推した。孫皓は23歳(数え)で帝位に就いた。
即位してすぐの孫皓は、名君に見えた。倉を開いて貧しい者に施し、宮女を減らして妻のない者に嫁がせ、宮中の苑で飼っていた鳥獣を放した。人々は明主を得たと喜んだという。だがその評判は数か月しか続かなかった。孫皓は酒色を好み、気性が荒く、人の諫めを嫌うようになった。その年のうちに、自分を立てた濮陽興と張布を流罪にし、途中で殺させた。
都を武昌に移したのは265年である。長江をさかのぼる物資の負担が民を苦しめ、「建業の水を飲むとも、武昌の魚は食わじ」と歌われた。翌年には建業に戻している。宴会のたびに群臣に酒を七升ずつ強い、飲めない者にも無理に飲ませた。酒の席では側近に臣下の過ちを探らせ、失言した者を罰した。史官の韋昭は、酒が飲めず、また孫皓の父孫和の事績を本紀として書くことを拒んだために投獄され、殺された。人の目をえぐり、顔の皮を剥ぐ刑を用いたと記録は伝える。後宮には数千人の女がいたという。
孫皓は予言を信じた。「呉の天子が青い蓋の車に乗って洛陽に入る」という言葉を、自分が天下を取る徴だと考え、271年には母や後宮を引き連れて雪の中を北へ出発したが、兵士たちが反乱を口にしたため引き返した。276年には各地から瑞兆の報せが届き、年号を天璽と改め、その記念の碑を建てている。
呉を支えていたのは名将陸抗だった。長江中流の守りを固め、晋の羊祜と国境で向き合いながら、互いに敬意を払う付き合いをしたことで知られる。274年に陸抗が死ぬと、呉の守りは目に見えて弱まった。
279年、晋の司馬炎は六方向から呉を攻めた。益州で何年もかけて大船団を造らせていた王濬が長江を一気に下り、川をふさぐ鉄の鎖を焼き切った。呉の軍は戦わずに崩れた。280年3月、孫皓は都の建業の石頭城で、自らを後ろ手に縛り、棺を車に載せて降った。死を覚悟した降伏の作法である。呉は滅び、三国の時代は終わった(晋による統一)。
洛陽に送られた孫皓は帰命侯に封じられた。予言のとおり、彼は洛陽に入ったのである。捕虜として。『晋書』や『世説新語』によれば、司馬炎は彼に席を与えて「朕はこの席を設けて、そなたを久しく待っていた」と言った。孫皓は「臣も南方で同じ席を設けて、陛下をお待ちしておりました」と答えた。重臣の賈充が「南では人の目をえぐり、顔の皮を剥いだと聞くが、あれは何の刑か」と問うと、孫皓は「臣下でありながら君主を殺した者や、不忠の者に加える刑です」と答えた。賈充はかつて魏の皇帝曹髦を殺させた男だった。賈充は黙り込み、恥じ入ったという。284年、洛陽で死んだ。数えで43歳。
孫皓の暴虐を伝える記録の多くは、彼を滅ぼした晋の時代に書かれた。勝った側には、滅ぼした理由が要る。それでも、呉の名門の出である陸機が呉の滅亡を論じた「弁亡論」も、晩年の失政を認めている。暴政があったことは疑いにくい。ただ、呉の衰えは孫権の晩年の後継ぎ争いで名臣が多く失われたときから始まっていた。蜀の最後の皇帝劉禅は、洛陽で「ここは楽しく、蜀を思い出さない」と言って笑われた。孫皓は最後まで憎まれ口をきいた。陳寿の陳寿『三国志』が描いた三国の物語は、この二人の降った皇帝で幕を閉じる。