蜀の滅亡
概要
魏の鄧艾が険しい山道を越えて成都の背後に出た。皇帝劉禅は戦わずに降伏する。「ここが楽しくて蜀を思わない」と言った、と伝わる。三国の一つが最初に消えた。
場所
30.66°N 104.06°E · 中国・四川省
本文
諸葛亮が五丈原の陣中で死んでから(五丈原と諸葛亮の死)、29年がたっていた。
蜀は、劉備が益州を取って建てた国だった(劉備の入蜀)。三国のうちで最も小さく、人口は魏の数分の一しかない。諸葛亮の死後、その後を継いだ蒋琬と費禕は守りを固めて国力を養ったが、費禕が暗殺されると、軍を握った姜維が北への出兵を繰り返した。勝つこともあったが、国は疲れた。都の成都では、皇帝劉禅のそばで宦官の黄皓が力を持ち、政治は乱れていた。

263年、魏の実権を握る司馬昭が、蜀を攻めると決めた。父の司馬懿、兄の司馬師から受け継いだ権力を固めるには、大きな功が要った。総勢は十数万とされる。鍾会が主力を率いて漢中から南へ進み、鄧艾と諸葛緒が西から姜維の軍を抑える。
漢中の守りは魏の大軍の前に抜かれ、西の沓中にいた姜維は追撃をかわしながら退いて、剣閣の要害に立てこもった。両側を断崖に挟まれた狭い道で、大軍でも抜けない。鍾会の軍は剣閣の前で止まり、兵糧が尽きかけて、引き揚げることまで考えた。

鄧艾が別の道を取った。陰平から、道の無い山地を南へ進んで、剣閣の背後に出る。700里あまり、人の住まない土地に、山を削って道を作り、谷に橋を架けながら進んだ。兵糧は尽きかけ、何度も危うくなった。正史の『三国志』は、険しい崖に行き当たると、鄧艾は毛布で身を包んで転がり落ち、兵たちも木にすがり崖をよじって一列になって進んだ、と書く。
鄧艾の軍は、蜀の側が守りを置いていなかった江油に出た。守将は、まさかここに敵が来るとは思っておらず、戦わずに降伏した。鄧艾はさらに進み、綿竹で諸葛亮の子・諸葛瞻の軍を破った。諸葛瞻も、その子の諸葛尚も戦死した。

成都の目の前に、魏の軍が出た。朝廷では、南の地方へ逃げる案や、呉へ身を寄せる案が出たが、譙周が降伏を説き、劉禅はそれに従った。劉禅は自ら手を後ろに縛り、棺を伴って鄧艾のもとへ出向いた。降伏の作法だった。劉禅の子の一人、北地王劉諶は降伏に反対し、祖父劉備の廟で妻子とともに命を絶ったと伝わる。
剣閣の姜維は、まだ戦っていた。そこへ皇帝の降伏の命が届いた。将兵は怒り、刀を抜いて石を斬った、と伝わる。
話はそこで終わらなかった。蜀を落とした功を争って、鍾会は鄧艾を謀反の疑いで捕らえさせた。降った姜維は鍾会に近づき、鍾会に魏からの自立をそそのかした。蜀を取り戻す望みを、最後まで捨てていなかったと見られている。だが翌264年、成都で魏の将兵が反乱を起こし、鍾会も姜維も殺された。鄧艾も護送の途中で殺された。蜀を滅ぼした三人は、そろって成都の前後で命を落とした。
劉禅は洛陽へ送られ、安楽公に封じられた。ある宴で、司馬昭は蜀の音楽を奏させた。蜀から来た者たちが涙を流すなかで、劉禅は笑って楽しんでいた。司馬昭が、蜀を思い出すかと尋ねると、劉禅は「ここが楽しくて、蜀を思いません」と答えたという。この話は正史の本文ではなく、裴松之が注に引いた別の書に見える。旧臣の郤正があとで、次に聞かれたら先祖の墓が蜀にあると泣いて答えなさい、と教えたが、同じことを聞かれて劉禅がそのとおりに答えると、司馬昭に見抜かれた、とも書かれている。
暗愚の見本として語られてきた逸話だが、敵の都で生き延びるための芝居だったと読む見方もある。劉禅は洛陽で7年あまり穏やかに暮らし、271年に亡くなった。
三国の一つが、最初に消えた。2年後の265年、司馬昭の子・司馬炎が魏の皇帝から位を譲らせ、晋を建てる(司馬炎の晋建国)。蜀を滅ぼした魏もまた、蜀より2年長く続いただけだった。残る呉が滅び、天下が晋のもとで一つになるのは280年になる(呉の滅亡(晋の統一))。