周瑜
概要
赤壁で曹操の大軍を火で破った呉の将軍。美貌と音楽の才で知られ、36歳で病死した。演義では諸葛亮に嫉妬する人物に書き換えられている。
所属
呉本文
175年、廬江郡舒県(いまの安徽省)の名門に生まれた。一族からは、後漢の最高位の官である太尉を務めた人が二代にわたって出ている。背が高く、容姿に優れていたと正史の『三国志』は書く。

同じ年に生まれた孫策とは、少年のころからの親友だった。孫策の父の孫堅が董卓を討つ兵を挙げたとき、孫策の一家は舒に移り住み、周瑜は自分の家の南側の大きな屋敷を一家に譲って住まわせた。二人は兄弟のように付き合い、周瑜は孫策の母にも、息子のように挨拶に通ったという。
孫堅が戦死した後、孫策は父の旧臣を集めて長江の南へ渡り、江東の地を平定していく(孫策の江東平定)。周瑜は兵と船と食糧を率いてこれに合流し、各地の攻略に従った。198年ごろ、孫策は改めて周瑜を迎え入れ、建威中郎将の位を与えた。同じころ、皖の城を攻め落としたとき、二人は橋公という人の二人の娘を妻に迎えた。孫策が姉の大橋を、周瑜が妹の小橋を娶った。二人とも国中に知られる美人だったと伝わる。

200年、孫策は狩りの最中に刺客に襲われ、26歳で死んだ。後を継いだ弟の孫権はまだ19歳で、配下の将たちの中には、若い当主を軽んじる者もいた。周瑜は重臣の張昭とともに孫権を支え、自ら率先して臣下としての礼を尽くして、ほかの者たちに範を示した。
208年、曹操が大軍を率いて南下した。荊州を治めていた劉表が死に、その子の劉琮はすぐに降伏した。曹操は孫権に手紙を送り、水軍80万を率いて呉で狩りをしよう、と脅した。呉の宮廷では、張昭をはじめ、降伏すべきだという意見が大勢を占めた。
これに真っ向から反対したのが、魯粛と周瑜だった。周瑜は孫権の前で、曹操の弱点を一つずつ挙げた。北方には馬超や韓遂がいて曹操の背後を脅かしている。北の兵は船の戦いに慣れていない。冬で馬の飼い葉も無い。遠くから来た兵は水と風土に慣れず、必ず病が出る。曹操が80万と称する兵も、実際には北から連れてきた15、6万に、降ったばかりの劉表の兵7、8万を加えたもので、後者はまだ心服していない。精兵5万があれば破ってみせる、と。孫権は刀を抜いて机の角を斬り、これ以上降伏を言う者はこの机と同じだ、と宣言したと伝えられる。
周瑜は程普とともに3万の兵を率いて長江をさかのぼり、劉備の軍と合流して、赤壁で曹操の軍と向き合った(赤壁の戦い)。曹操の軍にはすでに疫病が広がっていた。部将の黄蓋が、敵の船が互いにつながれて並んでいるのを見て、火で攻めることを進言した。黄蓋は曹操に偽りの降伏の手紙を送り、油をかけた薪を積んだ船団を率いて近づき、一斉に火を放った。風にあおられた火は曹操の船団に燃え移り、岸の陣営まで焼いた。曹操は北へ退いた。
赤壁の後も、周瑜は休まなかった。長江の要衝、江陵の城にこもる曹仁と1年あまり戦い、その間に右の脇腹に矢を受けて重い傷を負った。傷を押して陣中を見回り、ついに曹仁を退かせて、江陵を取った。一方で、劉備がいずれ脅威になると見抜いていた。劉備を呉に留めて立派な宮殿と美女を与え、その配下の関羽や張飛と引き離せば、天下の大事は定まる、と孫権に進言したが、孫権は受け入れなかった。
210年、周瑜は次の大きな計画を孫権に示した。蜀(益州)を取り、北の漢中の張魯をも併せ、さらに北西の馬超と結んで、曹操を挟み撃ちにする。天下を二分する構想だった。孫権は許し、周瑜は準備のために任地へ戻る途中、巴丘で病に倒れて死んだ。36歳だった。死の前に、自分の後任として魯粛を推す手紙を孫権に送っている。孫権は喪服を着て周瑜の死を悼み、のちに皇帝となったとき、周瑜がいなければ自分は帝位につけなかった、と語ったという。
人柄を伝える逸話も多い。古参の将の程普は、年下の周瑜をはじめ侮っていたが、周瑜は常にへりくだって争わなかった。のちに程普は、周公瑾(周瑜の字)と付き合うのは、上等の酒を飲むようなもので、気づかぬうちに酔ってしまう、と語った。周瑜は若いころから音楽に通じ、酒が何杯も進んだ後でも、演奏に誤りがあれば必ず気づいて振り返った。そのため、曲に誤りあれば周郎顧みる、という歌が人びとの間ではやったと正史に記されている。
このように正史の周瑜は、度量が広く、先を見通す力を持った将として描かれている。ところが、元の末から明の初めにまとめられた小説『三国志演義』は、赤壁の主役を蜀の諸葛亮に移した。そこでは諸葛亮が祭壇で東南の風を祈って呼び寄せ、周瑜は諸葛亮の才を妬んで何度も殺そうとしては出し抜かれる。最後は諸葛亮の策にはまって怒りで傷口が開き、天はなぜ私を生みながら、諸葛亮まで生んだのか、と叫んで死ぬ。演義の人気によって、度量の狭い周瑜の姿が広く定着した。
宋の詩人蘇軾は、赤壁を訪ねて、小橋を娶ったばかりの若き周瑜の、雄々しく颯爽とした姿を詞に詠んでいる。正史と演義の間で、周瑜は千年以上、二つの顔を持ち続けてきた。