関羽の死と荊州の喪失
概要
樊城を囲んで曹操を怯えさせた将軍が、背後を呉に突かれて捕らえられ、斬られた。蜀は荊州を失い、天下三分の計の前提が崩れる。
場所
32.04°N 112.14°E · 中国・湖北省襄陽市
関わった人(2)
関羽?–AD219年 · 斬られた孫権AD182年–AD252年 · 背後を突いた本文
赤壁の戦い(赤壁の戦い)の後、劉備は荊州の南部を手に入れ、さらに西の益州(いまの四川)を取った(劉備の入蜀)。諸葛亮がかつて劉備に説いた構想は、荊州と益州の二つを押さえ、時が来れば、荊州の軍は北の宛や洛陽へ、益州の軍は西から長安の方面へ攻め上がって、魏を両側から挟む、というものだった。益州へ移った劉備は、荊州の守りを、旗揚げ以来の将関羽に任せた。
荊州は、呉にとっても譲れない土地だった。長江の上流を他人に握られていては、呉の本拠は安全にならない。赤壁の後、孫権は荊州の一部を劉備に「貸した」と考え、返還を求めていた。215年には両者が兵を出して一触即発になり、荊州を東西に分けることで折り合ったが、わだかまりは残った。正史によれば、孫権は関羽の娘を自分の息子の妻に迎えたいと申し入れたが、関羽は使者を罵って断った。のちの『三国志演義』では、関羽が「虎の娘を犬の子にやれるか」と言ったことになっているが、この言葉は正史にはない。

219年、劉備は曹操と争った漢中を手に入れ、漢中王を名乗った。同じ年の秋、関羽は荊州から北へ兵を進め、魏の曹仁が守る樊城を囲んだ。8月、長雨で漢水があふれ、樊城の救援に来ていた于禁の率いる七つの軍が水に呑まれた。于禁は降伏し、勇将の龐徳は降伏を拒んで斬られた。関羽の威勢は中原に響き、魏の領内でも関羽に呼応する者が出た。曹操は、都の許から都を移して関羽の鋭鋒を避けることまで考えたという。
これを止めたのが、司馬懿と蒋済だった。劉備と孫権は表では手を結んでいるが、内心は通じていない。関羽が勢いを得ることを、孫権は望んでいないはずだ。孫権に関羽の背後を突かせ、その代わりに江南の領有を認めてやればよい。曹操はこの策をとり、孫権と通じた。

孫権は、ちょうど荊州を奪う機会をうかがっていた。関羽は樊城を囲む兵の食糧が足りなくなり、呉の領内の倉の米を勝手に取っていた。呉の将呂蒙は、病を口実に前線から退き、代わりに無名の若い陸遜を置いた。陸遜は関羽にへりくだった手紙を送り、関羽は呉への警戒を緩めて、守りの兵を北へ回した。
呂蒙は、兵を船の中に隠し、漕ぎ手には白い衣を着せて商人の船に見せかけ、長江をさかのぼった。川沿いの見張りの砦を次々に押さえて、知らせが関羽に届かないようにした。荊州の要の江陵と公安を守っていた麋芳と士仁は、以前から関羽に軽んじられて恨みを抱いており、戦わずに降伏した。呂蒙は江陵に入ると、兵に民の物を一切奪わせず、関羽の兵の家族を手厚く保護した。家族の無事を知らされた関羽の兵たちは、戦う気を失い、次々に軍を離れていった。

樊城では、魏の援軍の徐晃が関羽の包囲を破った。前に魏、後ろに呉を受けた関羽は、引き返す拠点を失い、残った少数の兵と麦城に入った。そこからも逃れようとしたが、219年の暮れ、呉の兵に捕らえられ、息子の関平とともに斬られた。孫権は関羽の首を曹操に送った。曹操は諸侯の礼でこれを葬ったと伝えられる。その曹操も、翌220年の初めに死んでいる(曹操の死)。呂蒙も、関羽を討って間もなく病で死んだ。
蜀は荊州を失った。諸葛亮の構想の片方の腕がもがれ、蜀は西の益州に押し込められた。劉備は関羽の仇を討ち荊州を取り戻すために呉を攻めるが、大敗する(夷陵の戦い)。荊州の喪失は、三国の力の配分を決め、蜀が三国の中で最も小さな国になることを決定づけた。

関羽の物語は、死後に大きく育った。歴代の王朝は、義と忠の手本として関羽に称号を重ね、明や清の時代には、関羽は「関帝」として神に祀られた。武の神であると同時に、信義を守る商人の守り神ともされ、中国の各地、さらに華人が移り住んだ世界中の町に関帝廟が建てられた。横浜や神戸の中華街にも関帝廟がある。正史の関羽は、勇猛だが傲慢さもあり、その欠点が身を滅ぼした武将として描かれている。神になった関羽と、正史の関羽の距離そのものが、三国志という物語の広がりを示している。