張飛
概要
劉備と関羽の義弟。長坂で20騎を率いて橋を落とし、曹操の軍を止めた(一人で橋に立ち「燕人張飛」と名乗るのは『演義』)。部下を殴り、その部下に寝込みを殺された。関羽の弔い合戦に出る直前だった。
所属
蜀本文
張飛は、字を益徳という。生まれた年は分かっていない。故郷は涿郡、いまの北京の南西にあたる土地で、劉備と同じ郡の出身である。後漢の末、184年に黄巾の乱が起きると、各地で義勇の兵が集められた。劉備はこのとき兵を挙げ、同じころから関羽と張飛が劉備に従った。正史の陳寿『三国志』は、劉備が二人と同じ寝床で眠り、その恩愛は兄弟のようだったと書く。張飛は関羽より年下だったので、関羽を兄として仕えた。三人が桃の園で義兄弟の契りを結んだという名高い場面は、のちの小説『三国志演義』が描いたもので、正史には無い。

劉備の前半生は、敗走と流浪の連続だった。公孫瓚、陶謙、呂布、曹操、袁紹、劉表と、身を寄せる相手を次々に変えながら、劉備はなかなか自分の地盤を持てなかった。張飛はその間ずっと劉備のそばで戦い続けた。呂布に徐州を奪われたときも、曹操に追われたときも、張飛は劉備とともにあった。
張飛の名を不朽にしたのが、208年の長坂の戦いである。この年、曹操は大軍を率いて荊州へ南下した。劉表の跡を継いだ子は戦わずに降り、劉備は南へ逃れた。劉備を慕う民が大勢ついてきたため、一行の歩みは遅く、曹操の騎兵に当陽の長坂で追いつかれた。劉備は妻子を捨てて逃げ、張飛に20騎ほどを与えて追手を食い止めさせた。張飛は川を背にして橋を落とし、目を怒らせ、矛を横たえて、「我こそは張益徳である。来い、死ぬまで戦おう」と叫んだ。曹操の兵は誰一人近づこうとせず、劉備は逃げ延びることができた。正史が伝えるこの場面は、のちの『三国志演義』で、張飛がただ一騎で橋の上に立ち、その大喝で曹操の将が馬から落ちて死ぬ、という派手な場面にふくらんだ。「燕人張飛」という名乗りも、演義の中の言葉である。

この危機の後、劉備は孫権と結んで赤壁の戦いで曹操を退け、荊州の南部を手に入れた。214年、劉備が益州を取るとき(劉備の入蜀)、張飛は諸葛亮とともに長江をさかのぼり、各地を平らげながら成都へ向かった。途中の江州で、張飛は敵の将の厳顔を生け捕りにした。張飛が、大軍が来たのになぜ降らずに抵抗したのか、と責めると、厳顔は、我が州には首を斬られる将軍はいても、降る将軍はいない、と答えた。怒った張飛は首を斬れと命じたが、厳顔は顔色一つ変えず、首を斬るならさっさと斬れ、何を怒ることがある、と言い放った。張飛はその気骨に感じ入り、縄を解いて賓客として遇したという。
劉備が益州を治めるようになると、張飛は巴西の太守として北の守りについた。215年には、曹操の名将張郃が攻め込んできたのを迎え撃ち、山の細い道で大いに破った。劉備が漢中王となると、張飛は右将軍に任じられ、劉備が221年に皇帝の位に就くと、車騎将軍となった。

張飛と関羽は、ともに一万の兵に匹敵する豪傑と称された。しかし、二人の欠点は対照的だったと正史は書く。関羽は兵卒にはやさしかったが、身分の高い士大夫には傲慢だった。張飛は逆に、教養ある君子を敬ったが、身分の低い者には思いやりが無かった。張飛は部下を厳しく罰し、たびたび鞭で打った。劉備はそれを心配し、「お前は刑罰で人を殺しすぎる。毎日兵を鞭打ちながら、その者たちを身近に置いている。これは禍を招くやり方だ」と戒めた。それでも張飛は改めなかった。
一方で、張飛の私生活には意外な逸話もある。正史の注釈に引かれた記録によれば、200年ごろ、曹操の将の夏侯淵の一族の少女が、薪を拾いに出たところを張飛の兵に捕らえられた。張飛は彼女が良家の娘だと知ると、妻に迎えた。この妻との間に生まれた娘たちは、のちに二人とも、劉備の子の劉禅の皇后になっている。

219年、関羽は荊州で孫権に背後を突かれて殺された(関羽の死と荊州の喪失)。221年、劉備は関羽の仇を討つため、孫権を攻めることを決める。張飛は1万の兵を率いて閬中から出発し、劉備の本隊と江州で合流することになっていた。ところが出発の直前、張飛は自分の部下の張達と范彊に寝込みを襲われて殺された。二人は張飛の首を持って長江を下り、孫権のもとへ逃げた。張飛の陣営から劉備のもとへ急ぎの上奏文が届いたと聞いたとき、劉備は中身を見る前に、「ああ、張飛が死んだ」と言ったという。劉備がかねて恐れていたことが、そのとおりに起きたのである。翌年、劉備は呉との戦いに大敗する(夷陵の戦い)。
張飛は死後、桓侯と諡された。陳寿は、関羽と張飛を、国の柱となる勇将だったが、張飛は暴虐で恩をかけず、それが身を滅ぼした、と評している。のちの民間の語り物や『三国志演義』では、張飛は虎のような髭をたくわえ、蛇の形の矛を振るい、酒好きで短気だが、まっすぐで憎めない豪傑として描かれ、物語の中で最も人気のある人物の一人になった。いまも中国の各地には張飛を祀る廟があり、四川の閬中や雲陽の廟は多くの人が訪れる。