夷陵の戦い
概要
関羽の仇を討とうと劉備が呉を攻め、陸遜が火攻めで破った。劉備は白帝城で死に、諸葛亮に子を託す。三国の形が、ここで固まった。
場所
30.70°N 111.30°E · 中国・湖北省宜昌市
関わった人(2)
劉備AD161年–AD223年 · 敗れた陸遜AD183年–AD245年 · 火攻め本文
219年の暮れ、荊州を守っていた関羽が、背後を呉の孫権に突かれて捕らえられ、斬られた(関羽の死と荊州の喪失)。劉備は、長江の中流で魏と呉ににらみをきかせる要の土地と、旗揚げ以来の義兄弟とを、同時に失ったことになる。翌220年には曹丕が漢の皇帝から位を譲られて魏を建て(曹丕の即位(漢の滅亡))、221年、劉備も成都で皇帝に即位した。漢の血を引く者として、漢を継ぐという立場である。
即位から間もなく、劉備は呉を攻めると決めた。出陣の直前、もう一人の古くからの将、張飛が部下に殺され、その首は呉へ持ち去られた。趙雲は、本当の敵は漢を奪った魏であり、呉と戦うべきではないと諫めたと伝えられるが、これは正史の本文ではなく、後に注として引かれた伝記に見える話である。劉備は聞き入れず、221年の秋、自ら大軍を率いて長江を下った。

孫権は和睦を申し入れたが、受け入れられなかった。そこで北の憂いを断つために、魏に臣従して呉王の位を受けた。そして、呉の軍の指揮を陸遜に任せた。陸遜はまだ30代の終わりで、名家の出の文官として知られ、大きな軍を率いた経験は乏しかった。呉の古参の将軍たちや、孫氏の一族の将たちは、若い書生の下に付くことに不満を隠さなかった。
222年の初め、蜀の軍は長江の三峡を抜け、夷陵(いまの湖北省宜昌の辺り)の一帯まで進んだ。劉備は山沿いに数十の陣営を連ね、その長さは数百里に及んだ。陸遜は守りを固めて動かなかった。蜀の兵は挑発を繰り返したが、陸遜は応じず、将軍たちは、なぜ戦わないのかと詰め寄った。陸遜は、劉備は戦い慣れた相手で、来たばかりの勢いのあるうちは手を出すべきでない、疲れて気がゆるむのを待つのだと説いた。にらみ合いは正月から夏まで、半年近く続いた。

夏になって、蜀の軍は暑さを避けるため、陣営を山林の中に移していた。陸遜は、まず一つの陣を試しに攻めて失敗したあと、兵に茅を一束ずつ持たせて火攻めをかけた。乾いた林の中に連なっていた陣営は次々に燃え、呉の軍は一斉に攻めかかった。蜀の陣営は40あまりが破られ、将兵の多くが死ぬか降伏した。劉備は夜にまぎれて逃れ、白帝城に入った。魏の皇帝曹丕は、劉備の陣の張り方を聞いたとき、700里にわたって陣営を連ねて敵を防げるものか、劉備は兵法を知らない、と言ったと伝えられる。
劉備は成都へ帰らず、白帝城(永安)にとどまった。病が重くなり、223年の春、成都から諸葛亮を呼んだ。正史によれば、劉備は諸葛亮に、君の才能は曹丕の十倍ある、必ず国を安んじ、大事を成し遂げるだろう、と言い、さらに、わが子が補佐するに足る者なら補佐してほしい、その才が無ければ、君が自ら国を取れ、と告げた。諸葛亮は涙を流し、死ぬまで忠節を尽くすと誓った。劉備は数えで63歳で死に、まだ十代の劉禅が後を継いだ。

戦いの後、諸葛亮は、法正が生きていれば主君の東征を止められただろう、止められなかったとしても、これほどの負けにはならなかっただろうと嘆いたと、正史は記している。後の『三国志演義』では、諸葛亮が出陣に反対し、陸遜を石の迷路の陣で惑わせる場面が描かれるが、これは創作である。
敗戦の後、劉備は呉に使者を送って和睦を求めており、諸葛亮は劉備の死後すぐに鄧芝を呉に送って同盟を結び直した。呉もまた、魏が人質を求めて攻めてきたことで、蜀と手を結ぶ必要があった。229年に孫権が皇帝を名乗ったときも(孫権の帝位)、蜀はそれを認めて同盟を保った。
夷陵の戦いで、荊州を取り戻すという蜀の望みは消えた。蜀は西の益州に閉じこもる小さな国として、魏に挑み続けることになる。諸葛亮は、まず南の地を鎮め(諸葛亮の南征)、それから北への遠征に向かう。魏・呉・蜀の3つの国が並び立つ形(三国の鼎立)は、この戦いで固まった。