諸葛亮
概要
劉備を三顧の礼で迎えられ、蜀を支えた。北伐の途上、五丈原で陣没する。
所属
蜀関わったできごと(4)
三顧の礼AD207年 · 出た諸葛亮の南征AD225年 · 丞相街亭の戦いAD228年 · 丞相五丈原と諸葛亮の死AD234年 · 当人本文
諸葛亮は181年、徐州の琅邪郡陽都(いまの山東省)に生まれた。字は孔明。父は郡の役人だったが、諸葛亮が幼いうちに亡くなり、叔父の諸葛玄に引き取られた。黄巾の乱の後の戦乱で故郷は荒れ、叔父に連れられて南へ移り、やがて荊州の襄陽の近く、隆中に落ち着いた。兄の諸葛瑾は江東へ渡り、のちに孫権に仕えている。

隆中で、諸葛亮は自ら畑を耕しながら学問を続けた。身の丈は8尺あり、古い歌の梁父吟を好んで口ずさみ、いつも自分を、春秋時代の名宰相管仲や、戦国時代の名将楽毅になぞらえていた。周りの人々はそれを大言だと笑ったが、親しい友人たちは彼の才を認めていた。荊州の名士たちは、この若者を臥龍、伏せている龍と呼んだ。
その頃、荊州の劉表のもとに身を寄せていた劉備は、友人の徐庶から、臥龍に会ってみてはどうかと勧められた。連れてこさせようと言う劉備に、徐庶は、この人は自分から出向いて会うべき人で、呼びつけることはできない、と答えた。207年ごろ、劉備は三度隆中を訪ね、ようやく会うことができた。三顧の礼である。このとき諸葛亮は27歳、劉備は47歳だった。

諸葛亮は劉備に、天下の形勢を説いた。北の曹操は百万の兵を擁し、天子を手中にしているから、正面から争うことはできない。東の孫権は江東に三代続いて国を固めているから、味方にすべきで、敵にすべきではない。荊州は四方に通じる要地で、その西の益州は肥えた土地が広がり、君主は暗愚である。この二州を取り、西と南の異民族をなだめ、孫権と結んで内政を整え、天下に変事があれば、荊州と益州の二方面から北へ攻め上る。後に隆中対、あるいは天下三分の計と呼ばれる構想である。
翌208年、曹操が荊州に攻め込むと、諸葛亮は自ら孫権のもとへ使者として赴き、同盟を説いた。孫権は周瑜らの主戦論を入れて劉備と結び、赤壁で曹操を退けた(赤壁の戦い)。小説『三国志演義』は、諸葛亮が祭壇で東南の風を呼び起こし、霧の中の舟で敵から10万本の矢を集めたと描くが、これらは後世の創作である(『三国志演義』)。正史では、赤壁の戦いそのものでは周瑜の働きが中心で、諸葛亮は後方で兵糧や税を整える役を担っていた。214年、劉備が益州を取ると(劉備の入蜀)、諸葛亮は成都にとどまって政治と補給を受け持った。前線の劉備に兵と食糧を絶やさず送ることが、その仕事だった。

221年、劉備が皇帝に即位すると、諸葛亮は丞相となった。ところが劉備は関羽の仇を討つために呉へ攻め込み、夷陵で大敗して、223年、白帝城で死んだ(夷陵の戦い)。劉備は諸葛亮に、我が子が補佐するに足るなら補佐し、才が無ければ君が自ら取れ、と遺言した。諸葛亮は涙を流して、股肱の力を尽くし、死ぬまで忠節を貫くと答えた。
17歳の後主劉禅のもとで、諸葛亮は国政のすべてを任された。まず呉との同盟を修復し、225年には自ら南方へ兵を進めて、反乱した異民族の地を平定した(諸葛亮の南征)。南方の首長孟獲を7度捕らえて7度放ち、心から服させたという話は、正史の注に引かれた後の時代の書物に見えるもので、どこまで事実かは分からない。

内政では、法を厳しく、しかし公平に適用した。自分が抜擢した者でも罪があれば罰し、敵対した者でも功があれば賞した。陳寿は、蜀の人々は諸葛亮を恐れながらも愛し、刑罰が厳しくても恨む者はいなかった、と書いている。
227年、諸葛亮は北の魏を討つために漢中に軍を進め、出発にあたって劉禅に上奏文を奉った。出師の表である。「先帝創業未だ半ばならずして、中道に崩殂す」と、劉備が志半ばで世を去ったことから書き起こし、賢臣を近づけ小人を遠ざけよと若い皇帝を諭し、自分はもと無位無官の身で南陽で畑を耕していたが、先帝が身分を顧みず三度も訪ねてくれたことに感激して仕えることを決めた、と身の上を述べる。古来、これを読んで泣かない者は忠臣ではない、と言われるほど、名文として愛誦されてきた。

翌228年、最初の北伐で、諸葛亮は魏の西部の郡を次々に寝返らせたが、要地の街亭を任せた馬謖が、命じられた布陣に従わずに山の上に陣を敷き、水の手を断たれて大敗した。全軍は退かざるを得なかった。諸葛亮は、才を愛していた馬謖を軍法に従って処刑し、自らも任命の誤りの責任を取って位を3等下げることを願い出た。泣いて馬謖を斬る、という言葉はここから生まれた。
その後も北伐は繰り返され、数え方によって5度とも6度ともされる。蜀は国力で魏に大きく劣っていた。それでも攻め続けた理由について、守りに徹すれば国力の差は開く一方だから、という説明がしばしばなされる。諸葛亮は険しい山道の補給に苦しみ、木牛・流馬と呼ばれる運搬の道具を工夫し、前線で兵に畑を耕させた。魏の側では司馬懿が守りを固め、決戦に応じなかった。234年、渭水のほとりの五丈原で百日余り対陣したのち、諸葛亮は陣中で病に倒れ、54歳で死んだ(五丈原と諸葛亮の死)。

諸葛亮は生前、成都に桑の木800株と痩せた田15頃があるので子孫の暮らしには足りる、自分の死後に余分な財産を残して陛下に背くことはしない、と上奏していた。死後に調べると、そのとおりだった。遺言で、漢中の定軍山に、山を墓とし、棺がやっと入るだけの穴に、平服のまま葬らせた。
陳寿は諸葛亮を、政治の才では管仲や蕭何に並ぶと最大級に称える一方で、軍の統率には優れていたが、臨機応変の奇策は得意ではなかった、と評した(陳寿『三国志』)。蜀は諸葛亮の死から29年後に魏に降る(蜀の滅亡)。だが彼の名声は時代を経るごとに高まり、忠義と知略を兼ねた宰相の理想として、詩に詠まれ、小説に描かれ、各地に祠が建てられて、いまに至っている。