できごと

街亭の戦い

Battle of Jieting
AD228年
重要度 3
街亭の戦いに関わる図版:Kongming subjects Ma Su to execution
Kongming subjects Ma Su to execution Wikimedia Commons Qing Dynasty · Public domain

概要

諸葛亮の最初の北伐。先鋒の馬謖が命令に背いて山に登り、水を断たれて負けた。諸葛亮は泣いて馬謖を斬り、自分の位を三つ下げた。「泣いて馬謖を斬る」。北伐はあと四度、五丈原まで続く。

場所

街亭
34.90°N 105.90°E · 中国・甘粛省

関わった人(1)

諸葛亮AD181年–AD234年 · 丞相

本文

劉備が死んだのは223年である。蜀は荊州を失い(関羽の死と荊州の喪失)、呉との戦にも大敗したあとで、三国のうち最も小さく弱かった。後を託された丞相諸葛亮は、まず呉と和を結び直し、南方の反乱を鎮めて背後を固めた(諸葛亮の南征)。そのうえで227年、軍を率いて漢中に進み、若い皇帝劉禅に上表した。いわゆる『出師表』で、「いま天下は三つに分かれ、益州は疲れ果てている。これはまことに危急存亡の時である」という一節がよく知られる。

228年の春、最初の北伐が始まった。諸葛亮は、斜谷の道を通って郿を攻めると言いふらし、趙雲と鄧芝を箕谷に置いて魏の大将軍曹真の目を引きつけた。本隊は西へ回り、祁山に出た。魏の側は、劉備の死後、蜀が攻めてくるとは考えていなかった。不意を突かれた天水・南安・安定の三郡が魏に背いて蜀についた。このとき天水の若い将校姜維が蜀に降っている。魏の朝廷は大いに動揺し、皇帝曹叡は自ら長安まで出て、名将張郃に歩騎五万とされる兵を与えて西へ向かわせた。

京劇「失街亭」の馬謖
京劇「失街亭」の馬謖Wikimedia Commons ウィキ太郎(WikiTaro) · Public domain

勝負の場所は街亭だった。関中から隴山を越えて西へ来る道の出口にあたり、ここを塞げば魏の援軍は隴西に入れない。新しく得た三郡を固めるまで、街亭を持ちこたえられるかどうかに北伐の行方がかかっていた。誰を送るか。周りの者たちは、魏延や呉懿のような歴戦の将を推した。諸葛亮は衆議に逆らって、参軍の馬謖を先鋒に選んだ。

馬謖は、荊州の名家の出で、兄の馬良とともに才名が高かった。兵法を論じるのを好み、諸葛亮は彼を呼んでは昼から夜まで語り合ったという。南征のとき「城を攻めるより心を攻めよ」と献策したのも馬謖だと伝えられる。ただ劉備は死の前に、馬謖は言葉が実力を上回っている、大きな任に用いてはならない、と諸葛亮に言い残していた。諸葛亮はその言葉を聞き入れなかった。

明代の画家による諸葛亮の肖像(南薫殿本)
諸葛亮Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

街亭で馬謖は、命じられたとおり道を押さえて城に拠ることをせず、水場を離れて南の山の上に陣を取った。副将の王平は何度も諫めた。王平は兵の中から身を起こした人で、知っている字は十字ほどしかなかったと伝わるが、戦場の判断は確かだった。馬謖は聞かなかった。張郃は山の下の水の手を断ち、そのうえで攻めかかった。渇いた蜀軍は崩れ、散り散りになった。王平の率いた千人だけが太鼓を鳴らして陣を動かさず、張郃は伏兵を疑って追わなかった。王平はゆっくりと残兵を集めて退いた。

街亭を失うと、蜀軍は祁山にとどまれなかった。三郡はふたたび魏に取り戻され、諸葛亮は西県の民千余家を連れて漢中へ引き揚げた。同じころ、兵の弱い箕谷の趙雲も曹真に敗れていた。

戻った諸葛亮は、馬謖を獄に下した。その最期については陳寿『三国志』の中でも記述が分かれる。処刑して人々に謝したとする箇所もあれば、獄中で死んだとする箇所もあり、さらに馬謖がいったん逃げ、それを知りながら告げなかった友人が官を免じられたという記事もある。39歳だった。諸葛亮は自ら祭りを行い、残された子を生前と変わらず世話したという。蒋琬が、天下がまだ定まらないのに知謀の士を殺すのは惜しい、と言うと、諸葛亮は涙を流して、孫武が天下に勝てたのは法を明らかにしたからだ、いま法を曲げれば何をもって賊を討つのか、と答えたと伝えられる。「泣いて馬謖を斬る」の言葉は、この場面から生まれた。

諸葛亮は、責めは人を見る目を誤った自分にあると上表し、自ら位を三等下げて右将軍となり、そのまま丞相の職務を行った。王平は功によって昇進し、趙雲も位を下げられた。のちに東晋の史家習鑿歯は、人材の乏しい小国が有能な者を斬ったことを惜しみ、これでは天下を取れなかったのも当然だと批判している。法を守ることと人を生かすことのどちらを重く見るかは、いまも評価が分かれる。

北伐はこのあとも続いた。数え方には諸説あるが、同じ年の冬の陳倉攻め、翌年の武都・陰平の攻略、231年の祁山と出兵を重ね、234年、五丈原の陣中で諸葛亮が没して終わる(五丈原と諸葛亮の死)。街亭は、その最初の、そして最も勝ちに近づいた戦いだった。『三国志演義』はこの後に、諸葛亮が城門を開いて司馬懿を退かせる「空城の計」を置いているが、これは物語の創作である。

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