官渡の戦い
概要
曹操が十倍の袁紹軍を破り、華北の主になった。ここから南下が始まる。
場所
34.72°N 114.02°E · 中国・河南省中牟付近
関わった人(1)
曹操155年–220年3月15日 · 曹操側 · 総指揮本文
後漢の末、黄巾の乱をきっかけに帝国の統制は崩れ、各地の豪族や将軍が兵を抱えて争うようになった。2世紀の終わりには、その中から二人の実力者が抜け出していた。黄河の北を押さえた袁紹と、その南の中原に拠った曹操である。
袁紹は4代にわたって三公(最高位の大臣)を出した名門の出で、冀州・青州・并州を治め、199年には北方の公孫瓚を滅ぼして幽州も手に入れた。人口も兵力も、当時の群雄の中で最大だった。曹操は、これに先立つ196年に、長安から逃れてきた献帝を許(いまの河南省許昌)に迎えていた。皇帝を手元に置き、その名で号令をかけられることが曹操の強みだった。袁紹も一時はかつての盟友であり、ふたりの対決は避けられないものになっていた。

このころ、劉備は曹操に背いて袁紹のもとへ逃れており、江東では孫策が、曹操の留守を突いて許を襲おうとしていたとも伝えられる。孫策は200年に刺客に襲われて死に、その計画は実らなかった。曹操は、北の大敵と向き合いながら、背後にも敵を抱えていた。
200年の春、袁紹は大軍を南へ進め、黄河を渡ろうとした。前哨戦の白馬の戦いでは、当時曹操のもとに身を寄せていた関羽が、袁紹軍の将・顔良を討ち取っている。続く延津の戦いでも曹操は袁紹の将・文醜を破った。それでも袁紹軍の主力は健在で、曹操は官渡(いまの河南省中牟県の付近)に陣を構えて守りに入った。

両軍のにらみ合いは数か月に及んだ。袁紹軍は土山を築いて矢を射かけ、地下道を掘って攻めた。曹操軍は投石の車で土山の櫓を壊し、陣の内側に塹壕を掘って防いだ。曹操側の兵糧は乏しく、兵は疲れ、曹操自身も許へ退こうかと考えて、留守を預かる荀彧に手紙で相談したと伝えられる。荀彧は、いま退けば敵に勢いを与える、ここが天下の分かれ目だと励ました。
兵力の差は、陳寿の陳寿『三国志』によれば、袁紹が10万余り、曹操は1万に満たなかったという。ただし曹操の兵がそこまで少なかったかについては、注を付けた裴松之の時代から疑問が出されており、実際の差はもっと小さかったとする見方も多い。小説の『三国志演義』では70万対7万とされるが、これは物語の誇張である。
決め手は、袁紹の陣営からの寝返りだった。袁紹の参謀だった許攸は、曹操とは若いころからの知り合いだった。家族が法を犯したとして袁紹の部下に捕らえられたことから、袁紹を見限って曹操のもとへ走ったと伝えられる。許攸は、袁紹軍の兵糧が烏巣という場所に集められ、守りが手薄であることを告げた。
曹操は周囲の反対を押し切り、自ら歩兵と騎兵5000を率いて夜のうちに出陣した。袁紹軍の旗を掲げて敵の目をあざむき、烏巣を急襲して兵糧を焼き払い、守将の淳于瓊を討った。袁紹は救援を送る一方で、曹操の本陣を攻めさせたが、本陣は落ちなかった。攻撃に向かった張郃と高覧は、兵糧が焼けたと知って曹操に降った。
食糧を失い、将が寝返った袁紹軍は総崩れになった。袁紹は息子とともにわずかな騎兵で黄河の北へ逃げ帰った。袁紹の陣営では、参謀の田豊が開戦前に持久策を説いて受け入れられず、投獄されていた。敗戦後、袁紹は田豊を処刑したと伝えられる。優れた助言を退け、内部の対立を抑えられなかったことが、名門の大軍を敗北に導いた。
勝った曹操の側にも、危うさはあった。袁紹の陣営に残された書類の中から、曹操の部下や許の都の者たちが袁紹に宛てた手紙の束が見つかった。内通の証拠である。曹操はこれを読まずに焼き捨てさせ、袁紹が強かったころは自分でさえ身を保てるか分からなかったのだから、まして他の者は、と言ったと伝えられる(『魏氏春秋』)。
袁紹は202年に病死し、跡継ぎをめぐって息子たちが争った。曹操はその隙を突いて204年に袁氏の本拠・鄴を落とし、207年までに華北をほぼ平定した。その勢いのまま南へ向かった曹操は、翌208年、長江の赤壁の戦いで劉備と孫権の連合軍に止められる。官渡は、曹操が北の覇者となり、のちの魏の土台を築いた戦いだった。