司馬懿
概要
諸葛亮の北伐を守り切った。その孫が魏を奪い、晋として中国を統一する。
所属
魏関わったできごと(2)
五丈原と諸葛亮の死AD234年 · 魏側 · 対峙高平陵の変AD249年 · クーデター本文
司馬懿は179年、河内郡温県(いまの河南省)の名門に生まれた。字は仲達。父の司馬防は後漢の高官で、8人の息子はみな字に「達」の字を持ち、司馬の八達と呼ばれた。仲達はその次男である。生まれたのは黄巾の乱の5年前で、成人する頃には漢の朝廷は名ばかりになり、群雄が争っていた。

『晋書』によれば、201年ごろ、華北の実力者となった曹操が出仕を求めたが、司馬懿は漢の命運が尽きかけているのを見て、中風を患っていると称して断った。曹操が夜中に人をやって様子を探らせると、寝たまま身動きもしなかったという。208年、丞相となった曹操は、なお断るなら捕らえてこいと命じ、司馬懿はついに出仕した。断り続けた期間は7年ほどになる。曹操に仕えてからは、太子の曹丕の側近として信任を得た。曹操は彼の器量を警戒し、体を前に向けたまま首だけを真後ろに回せる狼のような相があると言って、曹丕に用心させたとも伝えられるが、これは後世の逸話の色が濃い。
220年に曹操が死に、曹丕が漢から帝位を譲られて魏を建てると(曹丕の即位(漢の滅亡))、司馬懿は政権の中枢に入った。226年に曹丕が死ぬ際には、曹真らとともに次の明帝曹叡の後見を託されている。翌年、魏に降っていた蜀出身の将孟達が、諸葛亮と通じて再び背こうとした。司馬懿は朝廷の許しを待たずに兵を発し、通常の倍以上の速さで進軍して、孟達の拠る新城を半月ほどで落とした。孟達は、司馬懿が来るまでに一月はかかると見込んでいたという。慎重一辺倒の人ではなかった。

231年、蜀への備えを担っていた曹真が死ぬと、司馬懿が西の守りを引き継いだ。諸葛亮の北伐を迎え撃つ役である。蜀は国力で魏に大きく劣り、長い山道を越えて食糧を運ばなければならなかった。司馬懿はそれを見抜き、決戦を避けて守りを固め、相手の糧食が尽きるのを待った。234年、渭水のほとりの五丈原で両軍は百日余り対峙した(五丈原と諸葛亮の死)。諸葛亮は挑発のために女性の頭巾と衣服を贈ったが、司馬懿は動かなかった。配下の将たちが憤って出撃を求めると、皇帝に上奏して許しを請い、皇帝の使者が陣門で出撃を禁じるという形をとって、将たちを抑えたと伝えられる。
同じ頃、蜀の使者が来ると、司馬懿は戦のことは聞かず、諸葛亮の寝食と仕事ぶりを尋ねた。使者が、朝は早く夜は遅く起き、罰20以上の案件はすべて自ら目を通し、食べるのは一日に数升にすぎないと答えると、司馬懿は、食が少なく仕事が多い、長くはもつまい、と言ったという。その秋、諸葛亮は陣中で病死した。蜀軍が退くのを追ったが、蜀軍が旗を返し太鼓を鳴らして向かってくる構えを見せたため、司馬懿は兵を引いた。土地の人々は、死んだ諸葛が生きている仲達を走らせた、と言いはやした。それを聞いた司馬懿は、生きている者のことなら測れるが、死んだ者のことは測れない、と笑ったという。

238年には、遼東で自立した公孫淵を討った。往きに百日、戦いに百日、帰りに百日、休みに60日で、一年あれば足りると見積もり、長雨の中で襄平城を囲み、そのとおりに落とした。城内の成人男子数千人を斬り、遼東は魏の直轄になった。この遠征で朝鮮半島北部への道が開かれ、倭の女王卑弥呼の使者が魏に至ったのは、この遼東平定の直後のことである(238年とも239年ともいう)。
239年、明帝が若くして死に、8歳の曹芳が即位した。司馬懿は皇族の曹爽とともに後見を託されたが、曹爽は自分の取り巻きで要職を固め、司馬懿を名誉職の太傅に祭り上げて実権から遠ざけた。司馬懿は病と称して引きこもった。曹爽の側近の李勝が探りに来ると、侍女に衣を持たせても取り落とし、粥をすすっては胸にこぼし、話を聞き違えて見せた。李勝は、もう長くはないと報告した。

249年正月、曹爽が皇帝に従って都の外の高平陵へ墓参に出た留守に、司馬懿は兵を起こして都の城門と武器庫を押さえ、皇太后の名で曹爽の罷免を上奏した。正始の変とも高平陵の変とも呼ばれる。曹爽は、官職を退けば身の安全と財産は保証するという言葉を信じて降ったが、数日後に謀反の罪を着せられ、一族とその党派はことごとく処刑された。251年、淮南で王淩が反旗を翻すとこれも降して自害させ、その直後の251年に死んだ。73歳だった。
魏の実権はそのまま息子の司馬師、司馬昭へと引き継がれた。司馬昭の代に蜀の滅亡で蜀を滅ぼし、265年、孫の司馬炎が魏の元帝から帝位を譲られて晋を建てた(司馬炎の晋建国)。曹操と曹丕が漢から天下を奪ったのと同じ手順を、魏が受けることになった。魏は45年で終わり、晋は280年に呉を併せて中国を統一する(晋による統一)。司馬懿は晋の宣帝として追尊された。

後世の評価は、勝者の書いた『晋書』と、敗者の側に同情を寄せる見方の間で揺れてきた。忍耐強い名将であり、同時に、主君の一族を欺いて国を奪う道を開いた人物でもある。小説の『三国志演義』では、諸葛亮の引き立て役として、いつも一歩出し抜かれる役回りを与えられた(『三国志演義』)。だが最後に天下を手にしたのは、彼の子孫だった。