曹操の死
概要
孫権が関羽を斬ってその首を送ってきた翌月、洛陽で66歳。「天下はまだ定まらない。古の葬礼に従うな。葬ったら喪を脱げ。妾たちは銅雀台に住んで、毎月朔と十五日に歌え。余った香は夫人たちに分けよ。履を作って売れ」。遺令は家事のことばかりで、蘇軾はそれを笑い、いまはそれで愛される。
場所
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省
関わった人(1)
曹操155年–220年3月15日 · 死んだ本文
219年、曹操は南北の両方から圧力を受けていた。漢中では劉備に敗れて兵を引き、夏には劉備が漢中王を名乗った。秋には、荊州を守る関羽が北上して樊城を囲み、救援の于禁の軍は長雨の洪水で水没して降った。都を許から移すことまで議論されたほどである。曹操は徐晃を送って樊城を救わせる一方、関羽の背後をうかがっていた孫権と手を結んだ。孫権の将の呂蒙が荊州を奪い、退路を失った関羽は捕らえられて斬られた(関羽の死と荊州の喪失)。孫権が関羽の首を送ってくると、曹操は諸侯の礼でこれを葬ったと伝えられる。
建安25年正月、曹操は洛陽に入り、そこで病が重くなった。持病の頭痛(頭風)に長く苦しんでいたことは知られている。小説『三国志演義』は、名医の華佗が頭を切り開く治療を勧めて殺されたと描くが、史実の華佗の死はそれより前のことで、この場面は創作である。正月庚子の日、西暦では220年3月15日、曹操は洛陽で死んだ。66歳(数え年)だった。

正史の陳寿『三国志』は、死の直前の遺令を伝えている。天下はまだ安定していないので、古いしきたりどおりの葬儀はしなくてよい。葬ったらみな喪服を脱げ。兵を率いて守備についている将は持ち場を離れるな。役人はそれぞれの職務を続けよ。ふだんの服で納棺し、金や玉や珍しい宝物を墓に入れるな。死んだ後の混乱を何よりも恐れた、実務家らしい言葉である。
遺令には、もう一つの部分があった。晋の文人陸機は、宮中の書庫でその全文を読み、「魏の武帝を弔う文」に書き留めている。それによれば、曹操は側女や歌姫たちを銅雀台に住まわせて世話をするよう命じ、台の上に寝台と帳を置いて、毎月1日と15日には帳に向かって歌舞をさせよ、時々は台に登って西の丘にある私の墓を望め、と言った。余った香は夫人たちに分け与えよ。することがなければ、組紐を編み、履物を作って売ればよい。官職で得た印綬や衣服はしまっておけ。陸機は、天下を動かした人が、死に際して家の細かなことにまで心を砕いたことに胸を打たれた。

この「香を分け、履を売れ」の言葉は、後世さまざまに読まれた。北宋の蘇軾は、生涯偽りを重ねた男が、死に際して妻妾のことばかり気にかけるのは本性が出たのだ、と手厳しく評した。曹操を悪役とする見方が強まった時代の評である。いまでは逆に、この遺令が、英雄の顔の裏にある一人の家長の姿を見せるものとして、親しみをもって引かれることが多い。
曹操は鄴の西の高台に葬られた。死の2年前の218年に出した命令で、西門豹の祠の西の丘を墓所と定め、古の人はやせた土地に葬ったのだから、自然の高みを土台にして盛り土をせず、木も植えるなと命じていた。功のあった家臣たちを周りに葬るように、とも言っている。後漢の末には、豪族の豪華な墓が盗掘され、董卓の軍が皇帝の陵まで暴いていた。曹操自身も軍資金のために墓を掘らせたと敵方の檄文に書かれた人である。宝を入れない薄い葬りは、そうした時代を見てきた者の判断でもあった。墓の場所はやがて分からなくなり、宋の頃からは、盗掘を恐れた曹操が72の偽の墓を作らせたという「七十二疑塚」の伝説が広まった。2009年、河南省安陽市の西高穴村で大きな墓が発掘され、「魏武王常所用格虎大戟」と刻まれた石の札や、60歳前後の男性の骨が出た。曹操の高陵と発表されると、偽造を疑う声も上がって大きな論争になったが、その後の調査を経て、高陵とみる見方が有力になっている。

後継ぎの曹丕は鄴で魏王の位を継ぎ、年号は延康と改められた。そしてその年の10月、献帝から位を譲られて皇帝となる(曹丕の即位(漢の滅亡))。曹操には武帝の名が贈られた。
曹操自身は、死ぬまで漢の臣下としての魏王にとどまった。群臣が帝位に就くよう勧めたとき、もし天命が私にあるなら、私は周の文王になろう、と答えたと伝えられる。文王は殷に仕えたまま力を蓄え、殷を倒したのは息子の武王だった。天下を三つに分けた戦いの時代は、こうして子の代に三国の鼎立の時代へと移っていった。