できごと

党錮の禁

Disasters of the Partisan Prohibitions
AD166年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民漢サカ族の王国ヒンドゥーの諸王国スーレーン家の王国クシャーナ朝サータヴァーハナ朝弥生カリンガ高句麗南匈奴アイヌYueban新羅シンハラAD166年洛陽
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD166年の版図を描いています(16勢力)。

概要

宦官が官僚と学生を弾圧し、政治を正そうとする側が排除された。後漢の統治が内側から傷む。

場所

洛陽
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省

本文

後漢の成立から100年あまりたった2世紀のなかば、洛陽の宮廷は同じ型の争いを繰り返していた。幼い皇帝が立つと、母である皇太后の一族、つまり外戚が実権を握る。皇帝が成長すると、身近に仕える宦官を頼って外戚を倒す。手柄を立てた宦官は爵位と領地を与えられ、一族を地方の役人に送り込んだ。159年、桓帝は宦官の力を借りて、20年近く権勢をふるった外戚の梁冀を滅ぼした。それ以来、宮廷は宦官の天下になった。

これに強く反発したのが、儒学を学んで官僚になった人々と、都の太学に集まった学生たちだった。太学の学生は3万人にのぼったといわれる。彼らは宦官とその一族の不正を告発し、人物を評して互いに名声を高めあった。この時代の評判は、そのまま役人に推挙されるための資格でもあった。彼らは自らを「清流」と呼び、宦官の側を「濁流」と呼んだ。

清流の中心にいた一人が、司隷校尉の李膺である。厳しく正しい人柄で知られ、若い士人は李膺に認められると「竜門に登った」と言われた。今の「登竜門」という言葉はここから来ている。

166年、李膺は、宦官と親しい占い師の張成の息子が人を殺したのを捕らえ、恩赦が出ていたにもかかわらず処刑した。張成の弟子は宦官を通じて、李膺らが太学の学生や地方の士人と結んで徒党を組み、朝廷を誹謗していると訴えた。桓帝は怒り、李膺をはじめ200人あまりを「党人」として捕らえた。翌年、取りなす者があって釈放されたが、名は記録に残され、生涯役人になることを禁じられた。これが一度目の党錮である。「錮」は閉じ込めること、ここでは官途を塞ぐことを指す。

167年に桓帝が亡くなり、幼い霊帝が立つと、外戚の竇武と太傅の陳蕃が政治を握った。二人は党人を呼び戻し、宦官を一掃しようと計画した。ところが168年、計画が漏れ、宦官たちは先手を打って幼い皇帝を押さえ、詔を出させて竇武と陳蕃を殺した。陳蕃はすでに70歳を超えていたが、弟子たちを連れて宮門に押しかけ、そこで捕らえられたという。

翌169年、宦官は党人の追及を再び始めた。李膺ら100人あまりが獄死し、各地で逮捕と禁錮が広がって、その数は600人とも700人ともいわれる。若い清流の范滂は、逮捕の知らせを聞くと自ら獄に出頭した。別れに来た母は、李膺や杜密のような人と名を並べられるのなら、死んでも恨むことはない、と言って息子を送り出したと『後漢書』は伝える。176年には、禁錮の範囲が党人の一族や弟子、かつての部下にまで広げられた。

二度の党錮で、政治を正そうとする人々は朝廷から締め出された。地方の豪族や知識人の多くは、宮廷に望みを失い、郷里にこもって自分の土地と人の結びつきを固めていく。役人の任用は宦官の縁故と金で決まるようになり、霊帝の時代には官職が公然と売られた。

民衆の暮らしは、そのあいだも悪くなる一方だった。疫病と飢饉が続き、土地を失った農民が流民になった。184年、太平道の張角の呼びかけで黄巾の乱が起こると、朝廷は党人が反乱の側に加わることを恐れ、あわてて党錮を解いた。しかし、それで朝廷が立ち直ることはなかった。乱を鎮めた地方の将軍や豪族が力を持ち、189年には宦官と外戚の争いが最後の破局を迎える。大将軍の何進が宦官に殺され、怒った袁紹らが宮中に攻め込んで宦官を皆殺しにした。混乱に乗じて都に入った董卓が実権を奪い、後漢は群雄の争いの時代に入っていく。

党錮の禁は、後の中国で、正しい者が権力に排除された例として語り継がれた。清流の人物評や名節を重んじる気風は、魏晋の清談や名士の文化へつながっていく。一方で、清流を清く、宦官をすべて悪とする見方は、清流の側の人々が残した記録に多くを負っている。後漢の滅亡を党錮だけに帰すことはできないが、批判する者を締め出した朝廷が、危機に立ち向かう人材を自ら失っていたことは確かである。乱世を勝ち抜いた曹操が、宦官の養子の家の出身だったのは、時代の皮肉といえる。

同じ時代のできごと

『アルマゲスト』AD150年頃モンタノス派AD170年頃ユスティノスの殉教AD165年アプレイウス『黄金の驢馬』AD170年頃アントニヌスの疫病165年大秦王安敦の使者AD166年マルコマンニ戦争AD166年ガレノスの医学AD169年(皇帝の侍医になる)
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